昨日8月9日は中学受験生なら絶対に抑えて置かなければいけない日、そう「長崎に原爆が落とされた日」ですね。ショボーン

 

ところで昔は毎年8月になるとよくテレビで放映されていた映画があります、そう、多くの人に忘れられないトラウマを産み付けた名作、「火垂るの墓」ガーン

 

 

 

 

 

娘の小学校では先日教育の一環として、この映画を見ることになったそうなのです。ニコニコ

 

 

(ちなみにコレ…遺影ですよねガーン

 

ワタクシ、DVDもブルーレイも所有していますが、いつか娘に見せよう見せようと思いつつ、受験勉強もあってか見せられずにいておりました。チュー

 

実は、この作品私は中学生時代の思い出に残る、とても思い入れのある作品だったりします。お願い

中学時代の読書感想コンクールで学年代表に選ばれた作品なんです。ラブ

 

当時の私は、寮で朝日新聞を隅から隅まで読んでいるような、ちょっと頭の固い左傾向の人間でして、公開当時(中二…まさに中二病ですな)反戦映画っぽいアニメ映画があるという事で、なけなしのお金をはたいて映画を見に行ったわけです。ニコ

 

で、まぁそりゃ、母親の死体はグロいわ、節子は可愛そうだわで、苦しかったり泣けたりはしたわけなのですが、…なんかこう…思ってたのと違うぞと、そう思いまして…途中から、これは反戦映画なのか?はてなマークはてなマークはてなマークになったわけです。もぐもぐ

 

そしてラストシーンの衝撃、スクリーンの向こう側からコチラ側に訴えかけるような清太の目をみて確信、「これは単なる反戦映画ではない!」

 

でも、じゃあ作者はなんの目的でこの映画を作ったんだと。もぐもぐはてなマーク

 

さらに、世の中右を向いても左をむいても、「節っちゃん可愛そう」・「戦争の犠牲になった健気な兄妹」…なんて書かれているわけですよ。びっくりはてなマーク

 

そこで、本屋を転々とさまよい歩いている時に見つけたのが、コレでした。

 

 

隅から隅まで読んで、少なくとも反戦映画ではない事を確信、自分なりに作品のテーマなんかも考えをめぐらしました。そして、なんとかこの事を伝えたい、そう思って目をつけたのが、夏休みの宿題、「読書感想コンクール」でした。ムキー

 

まぁ一応、原作の小説もありますし、「絵コンテ」も本っちゃー本なんで、いいだろ!っていうむちゃくちゃな論理です。当然、コンクールの条件すら満たさないわけで、怒られる事を承知での若気の至りでした。びっくり

 

まず、読書感想文なのに、映画の評論をする事になったのは、どうしてもこの作品の事を書きたくなってたまらなくなったという動機の説明から始まり、世の中のこの作品の一般的な解釈、「火垂るの墓」=「反戦映画」という事、そして、果たして本当にそうだろうか、という問題提起を行い、映画や絵コンテから、その持論の根拠になる所の説明を書き連ね、手塚治虫の火の鳥に出てくる「八百比丘尼」のような輪廻に二人が囚われているという作品構造の説明、そして最後に、「この作品は決して反戦映画ではありません、死を描くことによって生の美しさを表現した物語なのではないでしょうか?」とぶち上げたわけです。チュー

 

当時の中二の私の低い低い読解力と、インターネットもない当時での少ない情報量では、この複雑な物語を読み解くのは、これが精一杯でした。(今の解釈はやや違います。)ニコ

 

で、恐る恐る学校に提出したわけなのですが、なんとこれが当時の国語の先生から褒められまして、国語の授業をまるまる使って、クラスで読み上げていただき、先生なりの解釈の仕方など授業の教材として使って頂きました。

 

そして、(コンクールの条件を満たさない事を承知で)学校代表の1つとして、選んでいただきました。ニコニコ汗

 

話は今に戻ります。

 

ですから、娘に映画は見せていなかったものの、これは単なる反戦映画じゃないんよ、といういらん説明なんかは、まぁしてしまっていたわけです。ショボーン

 

で、小学校では例によって「戦争の悲惨さを学ぶ」教材として「火垂るの墓」を上映したにも関わらず、空気を読まない娘が…

 

えー?「…これは反戦映画じゃないと思います…」

 

なんてやってしまったわけです。ガーンあせる

 

教室中 えー「ぽかーん・・・」

先生は キョロキョロむかっ「はぁ?何いってんのお前?」

てなもんで、

 

翌日も、えーむかっ「火垂るの墓は反戦映画ではないとの意見もありましたが、この映画にそれ以外の深い意味はありません、そんな見方をしてしまったら、この作品を作った人が可愛そうだと思いませんか?」 

 

なんて名指しで非難されてしまったそうです。…いやぁ、まぁそうなるわな。ショボーン汗

 

もちろん世に作品として出たものは、見た人が自由に解釈し、捉えていいとは思います。

 

しかし、少なくとも監督の高畑勲は「この映画は反戦映画ではない」そう何度も何度も、メディアに答えているわけです。ムキー

 

ネット社会の今なら、ちょっと調べたら、そういった裏付けはすぐ見つかります。グラサン

 

高畑勲は、本作品について「反戦アニメなどでは全くないそのようなメッセージは一切含まれていない」と繰り返し述べたが(「決して単なる反戦映画ではなく、お涙頂戴のかわいそうな戦争の犠牲者の物語でもなく、戦争の時代に生きた、ごく普通の子供がたどった悲劇の物語を描いた」とも)、反戦アニメと受け取られたことについてはやむを得ないだろうとしている。

 

高畑自身はこの映画を心中物として描いており「戦争の悲惨さを出すんだったらもっと激しくやらなければおかしいんじゃないか。」と述べている。

 

高畑は、兄妹が2人だけの閉じた家庭生活を築くことには成功するものの、周囲の人々との共生を拒絶して社会生活に失敗していく姿は現代を生きる人々にも通じるものであると解説し、特に高校生から20代の若い世代に共感してもらいたいと語っている。

 

また、「当時は非常に抑圧的な、社会生活の中でも最低最悪の『全体主義』が是とされた時代。清太はそんな全体主義の時代に抗い、節子と2人きりの『純粋な家族』を築こうとするが、そんなことが可能か、可能でないから清太は節子を死なせてしまう

 

しかし私たちにそれを批判できるでしょうか。我々現代人が心情的に清太に共感しやすいのは時代が逆転したせいなんです。いつかまた時代が再逆転したら、あの未亡人(親戚の叔母さん)以上に清太を糾弾する意見が大勢を占める時代が来るかもしれず、ぼくはおそろしい気がします」と述べている(wikipediaより)

 

他にも、この動画がわかりやすいです。グラサン

 

 

(リアルサイコパスの岡田先生ですが、それだけに感情という余計なフィルターがかからない分析は素晴らしい。)

 

こちらでは、龍谷大学文学部教授の論文があります。グラサン

 

なぜ、高畑監督の制作意図が誤って伝わってしまったか、を原作との対比で分析した論文で、最後に「公式の戦争物語の磁力に抗しきれなかった高畑の敗北宣言」とまとめられています。

 

今の自分なりの解釈は、こうです。グラサン

 

・清太は自分の小さなプライドを守る為に、本来死なずに済むはずだった妹、節子を死に追いやってしまった。その罪によって永遠の煉獄にとらわれてしまった。

 

・節子は死によって、期せずして兄に「妹を自分が死なせた」という呪いをかけてしまうことになった。さらに兄の死により、同じ永遠の煉獄にとらわれてしまった。

 

・2人のこの悲しい結末は、世間の空気を読めなかった彼ら自身による行動の結果ではあるが、それでもそんな行動の「節子と清太」は美しく光り輝いていた。蛍が死ぬ前に美しい光を放つように。

 

・彼らの行動は、当時の時代の空気からは到底理解されるものではなかったが、もし平和な現代であれば、どうだっただろうか。今の若者であれば、彼らの行動も理解できるのではないだろうか?

 

・あの時、過ちを犯した未熟さは、その死と煉獄の炎を受けなければいけないほどの物なのだろうか?

 

ラストの清太の目はそう私に訴えているようにしか思えてなりません。ショボーン

 

彼らのあの小さな過ち、全体に流されない小さな抵抗を許さなかった、時代の空気が彼らを死に追いやった遠因にはなっていないでしょうか?

 

この映画は「反戦映画である」として、たった一人の「反戦映画ではない」という意見を上から押しつぶしてしまう事。

 

これは、高畑勲監督自身の意図を考えますと、なんだか私にはこっけいな程、とっても皮肉な話だなと、まぁそんな出来事でした。ショボーン汗

 

そして中学の国語の先生、すごかったんだなと、改めて感じる事が出来ました。照れ

 

コロナからくる今の社会の雰囲気、SNSで正義を振りかざし人を死にまで追いやってしまう、いわゆる正義マンみたいな存在の人たち。

 

高畑監督の予見していた不安がひょっとしたら現実になろうとしているのではないか、そんな事を思う今日このごろです。グラサン