先日大学を卒業出来た。ありがたいことに。

 中学で長い間入院したり、高校で不登校になったり、大学でまた別の疾患に悩んだり、大卒までのレールを踏み外しそうになったタイミングは何度もあったが、その都度、周囲に支えられた。環境に恵まれた自分は、そういった意味でやや背伸びをして大学を出たのかもしれない。何にせよ尊い学生時代だった。


 コロナ禍で入学した我々の学年は、中止になった入学式の予算やらで、卒業式の後地元の琵琶湖を二時間揺られるクルーズに参加できた。心に残る時間だった。バイキングもあった。申し訳ないほど至れり尽くせりってやつだった。こんな感慨深くありがたいもてなしの中何を思うんだろうと、学生生活も終わるというのに、子供のように前夜からワクワクしてた。


当日、「あー、あの娘(こ)にもインスタ教えてもらわなきゃ」(使命感)


煩悩とは恐ろしい。別に心を燃やすほどの恋愛感情でもない。ちょっと見た目がタイプだから、内面的に引っかかることにも気づかないふりをする程度のくだらない恋もどきだ。煩悩のラインを自ら引けるのなら丁度ここに引く、というぐらいのところだ。こういう感情は22歳の誕生日を境に撲滅した気でいたが、慢心だった。悲しいかな理性は道理を外れぬほどに働き続けても、欲望は知性の少しばかり上をいく


 最初の方はそういった知人と、卒業後も接点を持つことに何故かとても価値と使命感を感じていた。だが、クルージングなんて滅多に出来ることではない。甲板に出て、ひとり冷たい風にあたりながら水面を見ていると、自分が異性への好意と見ていたものが、自らを貶めかねないものに思えてきた。暗くなってきた景色を見ながら、ちょっと大人になった感じがした。こうして煩悩を煩悩と初めて認識するのだと。

 その後は、何度かその煩悩に振り回されそうになりながらも、早いうち欲に見切りをつけ、心安らぐ方へと視線を向け続けた。友達が少ない(よっ友ばかりな)自分を、いつも迎えてくれた他領域の友人との時間を大切にした。尊い時間だった。

 それ以外の時間は寒いのを堪え、この機会にと甲板から積極的に景色を眺めていた。

 ずっと学内のラジオサークルによる船内放送が流れていたが、クルージングが終盤に差し掛かった頃、放送でサプライズに花火が上がるとの案内があった。そこそこ大人になり、冷めた目でものを見ることを覚えた気でいたが、不覚にも何だかとてもうれしかった。コロナ禍の混乱のさなか入学し、想定していた色々なイベントが無くなった我々の代に対し、大学から最大限の罪滅ぼしとばかりに華やかな見送りをされたような気分だった。至れり尽くせりって感じだ。"社会のため"にとか聞くと普段は苦い感じがする自分だが、こぢんまりとしながらも懸命に咲き誇る花火を見て思った。こんな時代でも子供や若者が前を向いて希望を見る機会を、守ってやれる大人になりたいと。

クルーズが終わり、船着場で眠っているアヒルを眺めた後、夜遊びはせずうちに帰った。


 前夜から緊張していた。良い思い出になりうる機会には、良い思い出にしなければと緊張するタチなのだ。だが思い返せば、結局その瞬間、その瞬間のことしか考えず過ごした一日だった。今まで苦手だったことだ。なんて成長だろう。きっと素晴らしい思い出になると思う。