行旅死亡人に私はなりたい(2) | Captain BlackBear の航海日誌

Captain BlackBear の航海日誌

猫のように気ままに…
あるいは海猫のように騒がしく…

以前に書いた行旅死亡人の記事の内容は覚えていない。


台風のあと、14日以降こんな晴れの日はない。
曇天がとてつもなくやるせない気持ちを連れてくる。
こんな時、父は何を思っただろうか?
祖父は何を考えただろうか?


『台風のあと餌を求める野良猫のことさらの食欲に感嘆す』


歳六十三にして思い出す父の言葉
「人も死ねば無」
考えてみれば、脳も四肢もある人間と同じ動物でさえ、死ねば骨も残らない。
「人は何を悩むか」と家畜はその身を人の食料として差し出している。
そう思えば気楽なものであるが、悩むから人なのであろう。

私はふたりの祖父を知らない。
母方の祖父は太平洋戦争時の徴用で、貨物船の沈没と一緒に死んだらしい。二年ほど前に亡くなった叔父の納骨の時に、分骨に使うような小さな骨壺を初めて見た。まだ十二才だった母を筆頭に、七人の子供を残して死ぬことをどういう思いでいただろうと聞いてみたい。骨壺には一片の歯が入っているらしい。
父方の祖父は、父か生まれた翌年に亡くなっている。選挙権もないのに、昭和五年の真冬の総選挙。選挙運動をしていて、風邪をこじらせて死んだらしい。四十過ぎに生まれた、やはり七人姉弟の末っ子の父は、自由に育てられ十四歳で予科練に行ったが、戦争中に兄を亡くして特攻隊志願も認められず、母親(私の祖母)のために極貧の家に戻ってきた。まだ十六歳だった。
最近、なるようにしかならない人の世で、会ったこともない二人の祖父を思うことが多くなった。私が死ねばもうこの二人を思う人はいなくなるなぁと。







『価値もなき吾が人生と笑われて人の記憶に残るすべなきや』