僕の中で、遠ざかることも本当に近づくことも出来ない故郷、
日本への旅が始まったのは、一体、何時の頃からだったのだろう。
もう子供の時に、そして、僕がまだ日本の中に居た時に、
其れは既に始まっていたのかもしれない。

ドイツに暮らすようになって30年余り、何度、僕はこのような旅を
繰り返してきただろう。決して属することはなく、それでも離れがたい
ことを確認するような旅。

ドイツに関わるずっと以前、もっと早くの頃から僕の帰属性の喪失は
始まっていたと思う。

--------------------------------------------------------------------------------

日本に着いて一晩が明けた。初冬の朝。太平洋岸の小さな島国の
爽やかな青空。
何十年ぶりかで浅草の朝の街を散歩する。



自分にもかつて、故郷のようなものがあったのだろうか。



今、小学校一、二年生の頃に毎日通った通学路、観音様を横に見て、
弁天山の鐘楼の細い通りを歩いている。







芭蕉の句。「花の雲、鐘は上野か、浅草か」

子供の頃にはそんな詩歌のことは露知らず、学校帰りの弁天山は、
友達との格好の遊び場だった。特に人気があったのは、石垣や
鐘楼の後ろに隠れての石投げ合戦だ。一度は、友達の片目を
危うく潰すようなこととなり、母親の大目玉をくらった。
鉄棒が苦手だった僕が、雲梯を覚えたのもこの弁天山だった。



五十年前とほぼ変わらない雷門の風景、僕が子供の頃、当時は
夜八時過ぎになると人通りも絶え、仲見世のシャッターも閉まり
シーンとしていた。
目の前にある交番のお巡りさんに見守られて、夕食の後、近所の
子供やいとこ達と一緒に、雷門の屋根越しによくキャッチボールを
していたことを思い出す。
上手く投げないと、屋根瓦にぶつかってどこにボールが行くかわからない。
僕達はそれを追いかけて、上手くキャッチ出来ると鼻高々だった。

雷門前の名物の柳も、自分の祖父母「じじとばば」が植樹したものだと
常に聞かされていた。今ではそれが本当か嘘か確かめる術もない。
祖父は一代で浅草の内外に鳴り響く和菓子屋「きねや」を立ち上げた人
だが、踊りや色々な遊びが大好きで、祖母には大変苦労を掛け、折角
築き上げた資産もだいぶ使い込んだらしい。
僕には大体、怖いだけのおじいさんだったが、晩年、僕が大学生の時に
入院していた祖父を訪ね、たまたま下の世話をした時に、怖かった祖父
が涙顔で何度もお礼を述べ、その後も「知行は本当に立派になった」
と繰り返していた。

父の仕事の失敗で十に満たぬ歳でこの浅草の街から離れ、当時、東京の
郊外の田舎だった世田谷に引っ越した時、それが僕のまだ幼い人生の
大きな転機だったのだろう。どこで覚えたのか、僕はその後何年にも
渡って「都落ち」という言葉を自分の頭の中で繰り返していた。

僕の人生が「根無し草」になったのも、多分この時からのことだろう。 
自分の原風景がある場所、その後の生き方の原形を刻み込まれる時間が
流れた場所、それが浅草の街だったのだと思う。

今日は思わず自分の過去への入り口を目の前にし、いつかは一度、
その中に踏み込んで行こう、行かざるを得ないだろうと思う。

その中で見い出すであろうこと、それは、もう成人となった三人の
子供達に、彼らの母国語、ドイツ語で書き残しておくようにしたい
と思う。
過去を探る想いは、未来へのつながりを求める力と裏腹の
関係にあるのだろう。それは「根無し草」の話ではない。