今日はKさんと、六義園の紅葉を見た後、川崎に行ってクリスマス・キャロルを観て、その後、巣鴨のイタリアンで食事してきました。
紅葉は、先週が見頃だったということで期待していなかったのですが、まだ少しだけ大丈夫でした。でもほとんど終わってましたね。
川崎にまで観に行ったのは、3Dで字幕のところが近場ではそこしかなかったからです。都内はほとんど吹き替え版で、3Dでないなら字幕もあったんですが、この映画は英語を聴きたかったし、3Dもかなり凝っているようだったので3Dも外せなかったのです。
で、3Dと字幕の2つが揃っているのは川崎だけだったのです。しかもデジタルで大画面ということで、2200円でした。高!(ってかKさんが払ってくれたけど。^^;)
クリスマス・キャロルは、予告を観ただけで何度も泣いてしまったので、3Dのメガネをしていると涙どうしよう・・と思ったのですが、思ったほどは泣きませんでした。
私、たぶん感動のツボが多くの人と違うらしくて、なんでもない(と思われがちな)ところで泣きそうになって、こらえるのが大変でした。(こらえなくてイイってか。^^;;)
キリスト教の世界観、ということでしたが、それはあまり感じませんでしたね。もちろん原作そのままとも思いませんが。
面白かったですよ。是非行ってみてください。
欲を言えば、もう少し、過去にどういう経緯で守銭奴になっていったのか、を深く掘り下げてくれると良かったかなと思います。たぶん幼少期からの積み重ねで、そうなっていったと思うんですが、なんだかヒューマンな感じから一転してお金に厳しい人格になっていたので・・。
それにしても、人ってどうして死に直面するなどということでもなければ素直になれないものなんでしょうね。分かっているけどマダしない、みたいな。そしてイマサラ、みたいな。
気恥ずかしさ、バツの悪さ。そういうものが邪魔しているんでしょうか。きっとそうなんでしょうね。
たぶん本気で、「いや別にもういいし」とか思っているわけじゃないと思うんです。心の奥底では。でも、やっぱり(無意識に?)今までの態度との整合性を計ってしまって、なかなか改められない。
これは自分もすっごく身にしみて思うことです。
死ぬまでにはこれこれをしたい、余命幾許もないならこれだけはしたい、これをせずには死ねない、死に際してなら出来ると思う。恥も外聞もなく、本当に命がもうないなら・・。
そう思う人は多いでしょう。
でもじゃあ命がなくなった時にタイムマシンで過去に帰してもらったと仮定して今やれば??
で、出来るかというと、出来ない。
命があると思うと出来ないんです。
これは何故なんでしょう。。
この先も生きているとしたら、どうしたら心が軽く、毎日が楽しく居られるでしょう。
まずチクチクと痛む、心に引っかかった小骨を取り除くことから始めなきゃ。
嫌な態度を取られた人とか、いがみあっている兄弟とか、許せない人とか・・ を許す、だけでなく愛する。
でもそれって、一番勇気の要ることだと思うんですよね。
そんなことをするくらいなら死んだほうがマシ!! なんてのは大袈裟かも知れないけど、でも、別に死ぬまでこのままでもいいよ、なんてことは思いがちです。
でも、心の底から幸せになるには、そこはきっと避けては通れない。
九死に一生を得た人の中には、人格が変わったようになるとか、消極的だった人が積極的になる、行動的になる、という人が多くいるそうですね。
それはやはりそれだけ生の臨場感を、死の臨場感を味わうことによって感じたからだと思います。
そのまま死んじゃう場合もあるので経験したいとは思いませんが、そういうことがキッカケで本当に大切にしたいものに気づいたり、それに向かって行動することを躊躇わなくなれた人というのは幸せだと思います。
映画を観ながら、私が3人のゴーストに過去、現在、未来を見せられたら、やっぱり行動するだろうな、と思うことがありました。
だけど、それを、今すぐ!明日!とかは、正直出来るとは思えません。
やはり恥ずかしさ、そして、不自然さを自分の中で感じてしまうのです。
何度も何度もクルクル回ってやり直し。
ジレンマを感じます。