誰かがしてくれるのが、当たり前
何もかもが当たり前という捉え方だと
〝有難い〟ことに氣づけなくなり
《感謝》の氣持ちが芽生えなくなる
という出来事を体験しました
当たり前なことなんて
何一つないのにね
当たり前の日常に慣れすぎて
何に対して《感謝》なのかが
わからなくなっているのかな
親のしつけだったり、
家庭環境や周りの大人の影響、
モノに溢れ何でも手に入る
恵まれた世の中…
様々なものが絡み合い
いつしか《感謝》や《思いやり》が
心の中に芽生えなくなって
しまったのかな
その人はそういう(感謝できない)人
という捉え方をすると
その人に対してレッテルを貼るようになるので
和多志とは住む世界が違う人
波動が違う人
という捉え方をして
ジャッジせず
自分の氣分が良くなることをして
心にモヤモヤを溜めないようにしてました
なぜ和多志の氣分が良くないかは
ちゃんと彼氏には伝えます
和多志の機嫌が良くないと
彼氏も氣分良く過ごせる訳では
ないですからね
それに見方を変えてみると
和多志に何かを氣づかせてくれている人
和多志の靈の成長のために
あえて悪役を演じてくれている人
という風に捉えることも出来ます
目の前の人は
自分自神の投影であり
和多志と和多志の心の関係性を
表しているという捉え方も出来るので
何らかのメッセージなのかも知れませんね
多角的、多面的、高い視野を持って
物事をみる練習なのでしょう
靈の成長のために
學ばさせていただき
ありがとうございます
自分自神への感謝が
まだまだ足りないのでしょうね
人に言われたい言葉を
自分で自分自神に言ってあげる
これを習慣化して
自分を褒めて
もっともっと自分を大切にしたいと
思った今日この頃です