「漫画家になるまで」② | くじらいいく子 オフィシャルブログ 「クジラのキモチ」 Powered by Ameba

「漫画家になるまで」②

【漫画家になるまで】その2

 

 

 

 

18歳になったわたしは本格的に絵を勉強しようと

2年制の油絵科に通うことにしました。

 

 

 

漫画だけを描いてきたわたしにとって

周りはしっかり芸術家ばかりで

パレットの上に油絵具をどう乗せて

それをどう混ぜたら良いのかも

知らない劣等生でしたが

学生生活の中でこの時期が一番楽しく過ごせました。

 

 

 

講談社から「アシスタントに行って欲しい」と言われ

埼玉県の漫画家のところで朝まで徹夜で仕事して

そのまま東京の家を素通りして横浜の学校に通うと言う

ハードな日々を過ごしました。

 

 

 

漫画家のアシスタントは「地獄」の一言でしたが

この時の経験があってその後の自分のプロ生活に

役立てたのではないかなと思います。

 

 

 

 

 

 

 

講談社の編集者から

「夏に漫画家を目指す人たちを集めたスクールを

3日間やるので来ませんか」と言ってもらい

天にも昇るキモチで参加しました。

 

 

 

この時の講師は吉田まゆみさんと大和和紀さん。

 

 

いつも読んでいた有名なプロの漫画家を

生で見る機会はもうないだろうと思い

必死でくらいついて観ました。

 

 

その時の参加者は24名。

 

 

漫画スクールで何度も賞を取った人ばかりで

紙面でその名前を知った人達が沢山いました。

 

 

成績の良い上位から年間数名ずつ

デビューさせると言うので

あとでこっそりこのスクールに誘ってもらった担当者に

「わたしは何位くらいですか?」と訊いてみたら

 

 

 

 

担当者

「くじらいさんはおまけだよ。

東京に住んでいて宿泊費がかからないから

呼んであげたの」

 

 

わたし

「・・・ーーー!!!」

 

 

 

24名中にも入らず

おまけだったとは。

 

 

 

もしかりに24位だとしても

年間のデビューが5人ほど

そしたらわたしの番が回って来るまで

何年もかかってしまう・・・

 

 

 

 

無理だ・・・。

 

 

 

 

 

 

こうして講談社を去ることになったのでした。

 

 

 

 

 

 

別の出版社へ行こう。

ぐっすん・・・。

 

 

 

 

そしてわたしは小学館へ本気モードで

再び原稿を持ち込み

この時たまたま電話で応対をしてくれたS編集者が

そののちのわたしの初の担当者になるのでした。

 

 

 

チューリップピンク

 

 

 

ちなみに講談社のその時のO担当者は

その後編集長になり

役員を経て引退された時

ご自分で1冊の本を出版されました。

 

 

 

その出版パーティーで20年ぶりでお会いするO氏。

 

 

編集者を育てる内容のその本の中に

わたしのことが書かれている一説がありました。

 

 

 

『自分の見立てが甘く

育てていた人をライバル社に取られてしまった』

 

 

 

今でもO氏とは40年間も

年賀状のやり取りをして

活動を見守ってくれています。

 

 

 

そして返す返すわたしも

O氏の元でデビューしたいキモチで一杯でした。

 

 

 

縁とは不思議なものですね。

 

 

 

 

 

続きます~~ウインク