保孝(ヤスタカ)は、恋人の熊葵(ユウキ)を殴ってしまった。
保孝のミスで、熊葵の大切な手鏡を割ってしまった事が、発端だった。
仕事がフリーターな事を常に気に病んでいた保孝は、熊葵が仕事の疲労やイライラが募っていたのを気付いていて、好きな日本酒を用意して待っていた。
熊葵も保孝の優しさに感謝していた。日本酒はコップ一杯だけで、疲れが吹き飛んだし、最高のパートナーと解っている。
しかし、不慮の事故だった。ふらついた保孝が壁にぶつかった事で、熊葵の手鏡が落下した。
その手鏡は、専門学校へ進学した熊葵に、母がくれた物だった。祖母の嫁入り道具として、曾祖母が渡した、とても大切な物だった。
それだけ大切な手鏡を壁に掛けていた熊葵の不注意でもあるのだが、激昂した。
元々気の弱い保孝は、平謝りに謝ったのだが、激昂した熊葵の苛烈な言葉責めは続いた。
いつもは頼りない保孝が逆ギレして平手打ちにしたのは、30分程責められ続けた時だった。
パシーン
部屋に乾いた音が響いた。
熊葵の頬には、「もみじ」と呼ばれる様な手の痕が残った。赤くなっている。
涙目の熊葵は、激昂して紅潮した顔と叩かれた痕の区別が出来るほどの頬のまま、保孝のアパートを飛び出した。
そして、少し強めの春雨の中、近所の公園のブランコに座った。涙なのか雨なのか判らないほど濡れながら。
保孝は責められ続け、辛くなったのだった。
いつもの優しい表情は、熊葵を叩いたその瞬間だけは、正に鬼の形相だった。
それに気づいている保孝は、バスルームに行き、頭からシャワーを掛けた。そのまま着の身着のままで。
さらに30分過ぎた頃、公園でずぶ濡れのままの熊葵を見付けたのは、近所に住む馴染みの喫茶店のマスターだった。
マスターは、熊葵から叩かれた経緯を聴き、熊葵の非を優しく諭した後、傘を貸してくれた。マスターに諭された熊葵は、傘を貸してくれた事に謝意を伝え、アパートへ向かって走った。
保孝はシャワーを冷水で15分も浴び続け、身体は冷えきっていたが、そのまま飛び出した。
そして雨の中で遭った時には、どちらからと
もなく抱き締めた。熊葵は激昂を謝る気持ちで、保孝は叩いた事を謝る気持ちで、お互いの唇は自然と重ねていた。