
今からおよそ1000年前の応徳3年、奥州の悪党数千名が、越後北部に侵入。
前年には出羽の豪族(元俘囚)清原家によって、内乱が 齎(もたら)される。清原家衡・武衡と清原清衡(後の奥州藤原氏初代・藤原清衡)との間での内紛である。後に「後3年の役」と呼ばれる戦いである。
清原の内紛とは同時期であっても呼応したものではないらしい。
悪党の頭は黒鳥兵衛である。彼の身の丈は8尺3寸(約250僉砲箸いβ臙砲任△襦E瓦遼世鯢雋錣箸靴董△泙拭鉄の弓矢を自在に操る豪のものであった。
かつて滅ぼされた奥州の覇者、安倍の残党という。
残忍な手口により、瞬く間に越後北部を制圧した。
地元では、住民が山に逃げ込んだ。逃げとおせなかった者は無惨に殺されたり、奴隷にされた。
老若男女の別なく、奴隷にされた者は、昼もなく夜もなくこき使われた。
越後北部の人々の血によって、城が築かれた。名を五十公野城といい、黒鳥軍の拠点となった。
蒲原平野各所も侵攻され、能代には配下・真鳥次郎が、丘陵地に近い平野には、横越・亀田という兵衛の配下が城を築いた。
侵攻は後を絶たず、弥彦山・角田山周辺までに及んだ。
海に近い間瀬という地域では、豪族の娘・松姫が横越によって拉致された。