事実上、実権を握った新羅三郎は、為義に対して、宗家義忠を殺害したのは、賀茂次郎と息子たち、またその郎党であるとして、賀茂次郎の邸を襲わせ、息子たち、郎党、次郎を捕縛させた。
賀茂次郎は無実を訴えるが聞き入れられず、息子たちと郎党は斬罪。次郎だけは佐渡へ配流刑とした。
のち、新羅三郎らの犯行であることが露呈したが、既に勢力を拡げていた坂東へ下向していたため、手が出せなかった。
三郎追討を上奏したところで、朝廷は源氏一門内の私闘と一蹴される事は明白。私闘には不介入の方針から、追討の院宣(いんぜん)を得られるはずもなかった。
この頃、六条判官為義の父、悪対馬・源義親(武力に優れ、反乱を起こした元対馬守)を討伐したのは、伊勢平氏棟梁の平正盛。
為義と争ったのは、正盛の嫡子平忠盛。
為義の子義朝と忠盛の子清盛の関係は、有名である。
*悪対馬・源義親(あくつしま・みなもとのよしちか)の【悪】とは、悪党の意味もあるが、《強い・豪の者》という意味でも使われていた*