時代は、江戸の後期、新潟町は嘗ての涌井藤四郎らによる事件がなかったかのような落ち着きを取り戻してからおよそ80年。活況を呈していた。北前船の寄港地であり、日本海側の拠点港の一つであった。
川舟を使って、蒲原の奥に繋がる保科肥後守の城下・若松にも、或いは信濃川を経由して天領の魚沼や、信濃までも送ることができる。
新潟町奉行所に勤務する、佐藤次郎兵衛は、どうもやる気のない男だった。事務仕事も、剣術や砲術の稽古もまるでやる気がない。それでも、閃きはすごい男だった。
「観察力が凄い」と町の内外から言われているからもあるだろうが、日誌をつける習慣があったから、読み返すうちに、推察も出来るようになったということだろう。
「次郎、有明まで行ってくんねぇけ?」
奉行所内で蒲原の有明まで行ってほしい旨を、上司の与力から言われたことがある。
「面倒らっけ嫌らわね。徒歩でどんだけかかるか判るんだかね?川島様。」
「与力の身分らと、返って面倒なことになるすけ、頼みてんだて。」
「そせば、寄居くれ(位)まで、馬乗っけてくれっけ?」
「どうやっても駄目らばしょうがねぇわ。臣兵衛に頼むっけ。」
「そうしてくんなせ。俺は寝ってるがね。」
そんなやりとりがあった。しかし、その日の日誌には、
{秘密裏の事もあるだろうが、二里程の距離と雖も、詳細を伝え、その上での隠密行動をする必要がある。労苦を惜しむのではなく、川島様の態度や行動が改まらなければどうしようもない。}
と尤もらしく書いていた。