作詞・作曲:森繁久彌
(セリフ)何地から 吹きすさぶ
朔北の吹雪よ
わたしの胸を刺すように
オホーツクは
今日も 海鳴りの中に
明け、暮れてゆく
父祖の地の国後に
長い冬の夜があける日を
白いカモメが告げるまで最涯の茜の中で
わたしは 立ちつくす
何故か 眼がしらの涙が凍るまで
オホーツクの海原
ただ白く凍て果て
命あるものは暗い雪の下
春を待つ心
ペチカに燃やそ
哀れ東にオーロラかなし
最涯の番屋に
命の火チロチロ
トドの鳴く夜は いとし娘が瞼に
誰に語らん
このさみしさ
ランプの灯影に 海鳴りばかり
鈴蘭の緑が
雪解けに光れば
アイヌの唄声
谷間にこだます
シレトクの春は
潮路に開けて
舟人のかいな 海に輝く
オレーオレー オーシコイ沖の声 舟唄
秋あじだ エンリャサ
揚げる網や大漁
霞む国後
我が故郷
何日の日か詣でむ 御親の墓に
ねむれ静かに

映画「地の涯に生きるもの」は、戸川幸夫さんの「オホーツク老人」の映画化で、知床半島に猫だけを相手に一冬をすごす男の物語です。
ロケの前年、出漁中の漁船が遭難し98人が死亡する事故がありました。 もし国後島に避難できればこれほどの惨事にはならなかったと、森繁さんは地元の人から聞かされています。
森繁さんがこの曲を作った背景には、父祖の地を奪われた(羅臼から国後は、僅かに30km)哀しみと憤りが込められている様な気がしてなりません。
歌中の「シレトク」は「知床」の元となった言葉で、アイヌ語で「地の涯」を意味します。
この映画が公開された当時の知床は、満足な道路もなく、まさに「地の涯」でした。
今は道路も整備され、快適に行けるようになりましたが、羅臼から見える国後島は、今もなお、ロシアによって実効支配されたままです。
父祖の地が日本に帰るのは何時の日になるのでしょうか…
ここで情報を一つ。標津町に「標津町メロディーロード」があります。日本で一番最初に設置されたメロディーロードで、曲は「知床旅情」で、制限時速で走ると「知床旅情」のメロディーが聞こえてきますよ。