京都民謡
編曲;赤い鳥
守りも嫌がる盆から先にゃ
雪もちらつくし子も泣くしこの子よう泣く守りをばいじる
守りも1日痩せるやら(くれるやら)(来いよ来いよと小間物売りに
来たら見もする買いもする)
(久世の大根飯吉祥の菜飯
またも竹田のもんば飯)
早よも行きたやこの在所越えて
向こうに見えるは親の家向こうに見えるは親の家
➡️1971(昭和46)年2月5日にシングル・カット、B面は「翼をください」
この歌は京都市竹田地区の、所謂被差別部落を歌ったもので、歌としては、かなり古くからあるものです。ただし旋律は違いますが…
この曲は複数の被差別部落に伝わる子供の労働歌であり、題名に「子守唄」とあるが正しくは「守り子唄」であり、子供を寝かしつけるのではなく、部落出身で子守として奉公に出され、学校へ通ったり遊んだりする余裕のない10歳前後の少女の心情が唄われているものです。
明治時代中期の発祥とされますが、題名にある京都市伏見区竹田地区の住民が実際に唄っていたのは、昭和初期に10代だった世代までであったとされます。
この曲は、3年間でミリオンセラーとなりましたが、歌詞の「在所」が被差別部落を意味し、それ絡みの楽曲と知った放送局は慌てて自主規制をかけ、人気だった赤い鳥に対し、放送局から理由を告げずに「歌唱曲から外してほしい」と複数回の要請がなされました。
またレコード会社も動揺し、採譜者が編曲著作権を主張したこともあってレコーディングが避けられるようになり、長い間いわゆる「放送禁止歌」として聴く機会が減少しました。
但し「部落解放同盟から抗議があったため放送しなくなった」とも噂されましたが、そのような事実はなく、部落解放同盟京都府連や竹田地区の解放同盟の者は、長らく放送禁止になったことすら知らず、中には竹田地区の唄であることさえ知らない者もいたらしいです。
しかし、元の旋律と歌詞とは大きく違う唄として広まったことに竹田地区の住民はかなり困惑し、赤い鳥のメンバーもヒットしてから被差別部落の唄という事実を知ったことで動揺したとの事。
背景には1970年の映画「橋のない川」第二部上映をめぐる騒動や、1974(昭和49)年の八鹿高校事件などもあり、1975(昭和50)年5月開催の「用語と差別を考えるシンポジウム」では、マスコミだけでなくドラマや落語などで「これでは物が言えなくなる」と指摘されるようになりました。
同年11月には部落地名総鑑事件が発生し、被差別部落の地名がどのような理由で使われようとも、部落解放同盟朝田派が差別だと言えばそう断定される状況が生まれたとして、本作にも部落の地名や「在所」の語があることから放送禁止になったことは否定できず、こうした出来事が同和タブーを形成した社会構造を浮かび上がらせるものであろうと、部落解放同盟と対立する全国地域人権運動総連合竹田深草支部執行委員は批判しています。
()で閉じた部分は、自主規制によって、放送出来なかった部分。
久世、吉祥(きっちょ)竹田の主食を歌っていますが、大根飯や菜飯はご存知かと思いますが、竹田のもんば飯とは、豆腐の絞り滓…つまりおからのに米を混ぜたものです。
今は竹田地区も見違える様になりました。
竹田の子守唄原曲
1…この子よう泣く守りをばいじる
守りも一日やせるやら
*どしたこりゃ きこえたか (以下格段お囃子)
2…ねんねしてくれ 背中の上で
守りも楽なし子も楽な
3…ねんねしてくれ おやすみなされ
親の御飯がすむまでは
4…ないてくれよな 背中の上で
守りがどんなと思われる 5…この子よう泣く守りしょというたか
泣かぬ子でさえ 守りやいやや
6…寺の坊さん 根性が悪い 守り子いなして 門しめる
7…守りが憎いとて 破れ傘きせて
かわいがる子に 雨やかかる
8…来いよ来いよと こま物売りに
来たら見もする 買いもする
9…久世の大根めし 吉祥の菜めし
またも竹田のもんば飯
10…足が冷たい 足袋買うておくれ
お父さん帰ったら買うてはかす
11…カラス鳴く声 わしゃ気にかかる
お父さん病気で寝てござる
12…盆がきたかて 正月が来たて
難儀な親もちゃうれしない
13…見ても見飽きぬ お月とお日と
立てた鏡とわが親と
14…早よもいにたい あの在所こえて
向こうに見えるは 親のうち
どしたこりゃ きこえたか