今日は攻殻機動隊GHOST IN THE SHELL 2「イノセンス」の中で私が感じた事を書いてみようと思います。

私が感じた事なので解釈は人それぞれだと言うことを前提に書かせてもらいます。

作品を観た方ならわかるとおもいますが、この作品は「引用」が多く使われています。

その中に、

「生死去来 棚頭傀儡 一線断時 落落磊磊」

(せいしのきょらいするは ほうとうのかいらいたり いっせんたゆるとき らくらくらいらい)

という世阿弥の能楽書「花鏡」で使われている言葉が出てきます。

これは生命の輪廻を現していますが、

世阿弥がこの言葉の意味するところは

「棚の上の操り人形はあくまで人形であり、生きているように動くが本当に生きているのではなく、操りの糸のせいである。この糸が切れてしまえば崩れ落ちるだろう」

つまり、

「人形を操るときに操る側を知られてはならない、もし知られてしまえば人形は人形であり本物ではなくなる。

もしこれを悟られずに操れれば人形も本物になる。」

というものです。

イノセンスの中でこの言葉が主にでてくるところは、ハッカーであるキムがバトーとトグサを擬似体験の迷路に取り込むところです。

ハッカーキムが偽りの記憶を本物の記憶としてバトーとトグサに認識させるという意味では、ぴったりの言葉だと思います。

しかし押井守監督は、このためだけに使った引用なのでしょうか?

私は違うと思いました。

ひとつは、義体を使う者の心構えだとおもいます。

でも核心はもっと違うのではないかと…

作品の中で一番目に付くのは「グラフィックの凄さ」だと思います。

これだけのグラフィックは私の知っているアニメーションにはありません。

なぜ押井守監督はここまでグラフィックにこだわったのか…

私は押井守監督がこの言葉を引用した理由をこのような意味を含めているんじゃないかなと解釈しています。

生死去来(動いている時も止まっているときも)棚頭傀儡(所詮は棚の上にある人形)一線断時(その人形を操っているのだと客にばれてしまえば)落落磊磊(興冷めしてしまう)

素子もバトーもトグサも架空の人物、つまり「絵」です。しかしリアリティを出すために、これほどグラフィックにこだわったのではないかと…

それなら作品の中で「落落磊磊」を「樂樂磊磊」{楽しませるものが崩れる(魅了することができない)}と押井監督がアレンジした理由が解かる気がします。

実際は、このようにアレンジした理由はまったく解かりませんが、私はそう解釈しています(^▽^;)


イノセンスは本当によくできた作品ですが、私のわがままを言わせてもらえば…

「もっと少佐を出してーーー!!(ノω・、)」

あれだけのグラフィックで「攻殻機動隊 S.A.C Solid State Society」を出してほしかった・°・(ノД`)・°・