「甘えん坊」/ 水谷優佑 | 全員サッカーへの、挑戦

全員サッカーへの、挑戦

関西大学サッカー部は
「全員サッカーで日本一」になるために
熱い毎日を送っています。




みなさんこんばんは。今回のブログを担当します、3回生の水谷優佑です。





最近は、昨日のじんたのブログにもあったように、自分も去年に比べDAZNで試合観戦よりスタジアムに足を運ぶ回数が増えました。今季はガンバに7試合、ヴィッセル2試合行きました!特にガンバ大阪の応援が大好きで会場に行かないと分からない独特の空気感を皆さんにも味わってほしいです。是非パナスタへ足運んでみて下さい。






それでは本題に入っていきます。自分のサッカー人生と素直な気持ちを綴るので最後まで読んでみて下さい。





甘えん坊。





自分を一言で表すとこの言葉に尽きる気がする。3歳の頃に初めてボールを蹴った日から、18年間辞めることなくボールと向き合い続けた。この長いサッカー人生を常に支え続けてくれたのは、間違いなく両親の2人のおかげである。




母は、小中学校の間毎日練習の送り迎えをしてくれた。中学生の時は、夜の7時から練習が始まっていたので学校から帰ってきてすぐ、5時過ぎぐらいに夜ご飯を出してくれていた。魚が嫌と言ってみたり好き嫌い言ってみたり本当にわがままなことばかり言ってしまっていた。

高校に入るとさらに忙しくなり朝の5時に起きて朝ごはんと弁当を3年間毎日作ってくれた。夜も10時過ぎに帰ってきたらいつも温かい状態でご飯を出してくれたり、次の日に間に合うために速攻で洗濯回してくれたり、、、それにも関わらず、文句や八つ当たりをぶつけたりもしてしまった。普通に考えて甘え過ぎている。





父とは幼稚園の頃から中学生までよく一緒にボールを蹴っていた。特に幼稚園、小学生の頃は毎週のように公園で怒られながら特訓をしたのは今でも鮮明に覚えている。公園で練習していたため、学校の友達に見られることもあった。次の日学校に行けば昨日泣いてたな〜なんて言われることもあった。試合の帰り道、途中で降ろされて走らされて帰ることもあった。なかなか素直になれず、YouTubeで色んな自主練の方法の動画を送ってきてくれたのをフル無視したり、父が嫌になることもあった。甘えたことばかり言っていた。だけど毎週土日は、欠かさずにサッカーを見に来てくれて、8割はダメ出しではあったが、1番自分を理解してくれているのは、父だと歳を重ねていくうちに身に染みて感じていた。





小学校時代、自分はDREAM.FCに在籍していた。チームは関西大会出たり、大阪でも上位にいることが多かった。ただ自分が胸を張って活躍できたと言える大会は一つもない。トレセンも地区トレセン止まり。中学の進路はこのまま大阪府1部のDREAMに行こうと考えていた。

しかし、ある時自分が寝ている間に父が千里丘FCのセレクションに勝手に応募した。全く受ける気はなかったがとりあえず受けたら受かった。ただそこでもあまり千里丘に行きたいのは思わなかった。なぜなら自分に自信がなかったから。しかし、何度も家族会議を行い、最終的には、ここまで父と二人三脚で頑張ってきたからには一つでも上のカテゴリーで頑張ろうと思い入団することになった。





ただ待ち侘びていたのは、今までにない挫折。入団して最初の1ヶ月、同学年40人のうち評価は37番目ぐらいだった。もちろんBチームで、本気でサッカーをやめようと思った。ただこんな状態の自分でも父は常に1番サポートしてくれていた。当初はやめろって言っていたのに、気づいたら月、火がオフだったが月曜と火曜だけ早く家に帰ってきてくれて一緒に3ヶ月ぐらい練習に付き合ってくれた。すごくしんどい3ヶ月間だった。けど自分以上に頑張ってくれている父を見ると頑張る以外に選択肢はなかった。3ヶ月続けるとすぐに結果が顕になった。すぐにAに上がることができ、公式戦で結果も残せるようになった。

ただそれでも自分のサッカー人生は人に比べて平凡であった。





中学3年生の時自分のサッカー人生にある転機があった。夏のクラブユースで、全国大会得点王になることができた。いや、なってしまったが正しいのかもしれない。まさか自分が?自分が1番びっくりした。世の中ももちろん。無名すぎてツイッターで色々書かれたりもした。両親はすごく喜んでくれた。とんとん拍子に、2ヶ月後には世代別15歳以下の日本代表にも選ばれた。正直に言うと全く嬉しくなかった。むしろ怖くて行きたくなかった。もちろんこんなメンタルの奴が活躍できるわけもなく出場時間もあまり確保できず、恥ずかしい形で帰国することになった。ただ、自分にしか得られなかった経験もあると思う。今では日本のトップ前線として活躍する選手と一緒のチームでできたかけがえのない時間であったのは間違いない。それを自チームに伝えようとしたが、すぐに高円宮杯で負け超急降下な精神状態で引退を迎えてしまった。

まさに人生のどん底の気分だった。燃え尽き症候群とも言えたのかもしれない。




そこから高校生になり家と練習場が遠かったのもあり、練習外で今まで以上に自主練をすることは極端に減ってしまった。これは、ただの言い訳に過ぎないが、自主練の量は必ずプレーに比例すると思っていた。ただ思っていてもなかなか行動に移せなかった。

みるみるうちに、同期がゲキサカで取材を受けたり、国体で頑張ったり、テレビに出たり、じんたのように小学校から知っている選手が代表に選ばれたり。ただ、焦りだけが生まれた。そんな中自分の心のどこかでもうプロを目指していないのかもしれないと思うようにもなった。

度重なる怪我や病気により、思うようにサッカーができない期間が多かった。





自分のサッカー人生はここで終わってしまうのか。





高校サッカー引退したその夜、私は両親に大学ではサッカーをやらないと言ったのをすごく覚えている。




現在の下宿組の中で誰よりも恐らく実家は近い。その中でもよりサッカーに打ち込める環境にするために家を借りてくれた。そこで、もう一度サッカーと真剣に向き合うことを誓った。




それから3年。現在はFCに所属しているが、個人としてもチームとしても苦しいシーズンになっている。この苦しい状況で自分自身が勝たせられる選手になれるように。今でもたまに見にきてくれる両親のためにも、試合に出続けてゴールやアシストをもっと見せたい。自分が取り組んでいることを信じてこれからも頑張ります。





まとまりのない文章でしたが、最後まで読んで下さりありがとうございます。