韓国ドラマ 秘密 | 気になる映画とドラマノート

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厳選名作映画とドラマを中心に、映画、テレビ番組について、思いついたこと、美麗な場面、ちょっと気になる場面に注目していきたいと思います。

たとえばアメリカ映画なら、「ハンニバル」という犯罪映画では、猟奇的な犯罪をする一種の精神異常者レクター博士は、自分を追跡するFBI捜査官を逆につかまえて監禁して、縛り付けて、麻酔を駐車した上で、頭蓋骨をのこぎりで切って、大脳を外に露出させた状態で、覚醒剤を打って、食事をせる。そこで、FBI捜査官は、自分の頭から大脳が飛びでいるのも、知らずにえへらえへらハイになって、このステーキ、うまいねぇ、という場面になる。

 しかし、これ、あくまでも、異常心理の、病的な精神状態の人物のけったいな犯罪だというふうに受け取られるのだし、いくらなんでも、アメリカはテレビドラマでは、こういうドラマは作らない。

 韓国ドラマは、世界中のドラマを確認できるわけもないから、わからないが、いや、実際、ほとんどまちがいなく、韓国風に言うと、世界に例を見ない異様な人間性を描く、奇怪なジャンルがある。

 徹底的な自己保身、自己の罪を他人になすりつけては、苦悩する・・なんともかとも、こんな卑劣、卑怯な人間が実在するはずないだろう、と言う人間を韓国ドラマは、繰り返しジャンルめいて作り続けている。たとえば、脳性マヒの人を小馬鹿にする惡人が出てくるドラマもあったし。

 わたしは、けっして、韓国人の国民性の中に、そういう卑劣な国民性があるから、そういうドラマがあるだなんて、思わない。あくまでも、そういうあまりにも、ひどすぎる卑劣無惨な人間像を脚本、監督、スタッフ、テレビ局一同、ていねいに作って放送するその意欲の奇妙さにクビをひねってしまう。なにそれ?どういうつもり、と?

 すくなくとも、そういう卑劣な人間像を日本人の役柄にした場合を想像すると、激怒したくなるようなひどい人間像だが、考えてみると、日本人が登場する場合、悪役ぶりは、案外単純なのである。

 そして、韓国ドラマの「悪人」は、そう、あの日本映画の「悪人」どころではなく、まさに、「悪人」とはこれではないか、という典型を描いている。

 検事が恋人とドライブしていると、話に気をとられて、車が何かにぶつかる気配がする。

 ちょっと待っていて、と車を止めて、車外に確かめに行く。気をつけてね、と彼女。
 検事は車の背後を確かめて、びっくり。見知らぬ女性が血を流して倒れている。

 ひいてしまったのだ。バレたら、検事はクビか?

 車に戻って、何でもなかったよ。あたったのは、ドラム缶だった、という検事。

 ああ、良かった、と安心する彼女。

 その車の所有名義は、彼女にあったから、彼女は破損した車をなんの気もなく、修理にだす。

 一方、警察は、ひき逃げ犯の捜査を開始。現場周辺のビデオから、彼女の車にたどりつく。

 あんたきのうどこにいました。えっ?どうしたんですか。

 きのうひき逃げ事件があったんですよ。被害者はもう死亡しました。

 あっ、それなら、この車じゃないわ。この車はドラム缶にあたっただけだもの。
 女性は、「もしかしたら、検事とわたしが乗っていた車が、人をはねて、知らずに戻ったのだろうか?と思うが、たとえ、知らない事とはいえ、事が露見すれば、検事をやめなければならないだろう、と自分はひとりで、運転していた、人をひいた事は気が付かなかった、と罪をかぶる。

 検事は自分が運転したのに、彼女が容疑者になっているのに、驚き、なんで黙って修理に出したんだ、どうして相談しない。なんで君が運転したことになっているんだ、と責めるが、彼女はおろおろするばかり。

 さあ、一緒に行って、本当の事を説明しよう、と検事。
 しかし、そんなことをしたら、あなたは検事、バレたら、クビになる。わたしが刑務所に行くから大丈夫。

 懲役5年の刑。

 この女性は検事の子をみごもっていて、刑務所で出産するが、検事の母親は、まさか真犯人は息子だとは思わず、息子の妻がひき逃げ前科がるというのでは嫌だと、孫を引き取って、孤児院に預け、刑務所を出た母親には、病気で死んだとウソをつく。

 さらに、身代わりになった彼女の父親が、真犯人はおまえだろうと怒りつつ、認知症になったので、検事は大雨の日、認知症の父親を連れだして、寒い場所に放置して死なせる。

 これでもかこれでもかという卑劣卑怯無惨な人間像が繰り広げられ、しかも、冷酷というのでもなく、悔みながらの地獄の自己保身。

 ここまで、来て、はたと気づいた。これって、韓国の脚本家は、あくどさをこれ以上ないほど誇張して、見る者の憤激を煽り、胸かきむしらせ、被害者に同情させる演出が視聴率を取れる王道だと考えているのではあるまいか。

 そうなんだろなー。

 しかし、もっと驚くのは、こういう恐るべき、陰惨な所業を描いたドラマが、東南アジア方面の韓国ドラマファンには、主人公の薄幸の女性と彼女を救う御曹子の美しい恋愛の話と受け取られているという事でこれには、さらにあ然とした。

 たくましいなあ。女性って。(ドラマファンの女性たちの事です)人間の悪の本性がどうのこうの、大まじめに考えるのがおかしくて、結局、非道な部分は、話半分で見るのが正しく、恋愛ドラマだったんだね、これって。OSTを見て、くそまじめに考えていた自分にきづかされました。
こういう人間の底知れない悪辣さを描いておきながら、恋愛ドラマにも見えてしまうように作るんだから、・・・そういえば、たいていの韓国ドラマはたしかに、すべてが恋愛モノの要素がかならずあるのだ。イイ根性してるな、韓国の脚本家って。

 ほんというと、自分って、思ったよりも、純真、こどもなんだなと思う反面、あまりこんなふうに、倫理の問題を恋愛ロマンスふうにまとめまぶして見るくせをつけていると、「物語」をすべて話半分に見るようになり、たとえば、の話、すべての映画を俳優の「美形の顔」にしか注目しなくなる、という弊害も起こると思うけどなあ。