女たちはどう生きてきたか 田中喜代子 2 | 気になる映画とドラマノート

気になる映画とドラマノート

厳選名作映画とドラマを中心に、映画、テレビ番組について、思いついたこと、美麗な場面、ちょっと気になる場面に注目していきたいと思います。

女たちはどう生きてきたか 田中喜代子 2

前から英光は東京に帰りたがっていたのでございますが、その希望がかなえられて、東京転勤と決まり、17年の末、東京都世田谷区の下北沢の社宅に移ることになりました。

 


 

 私としましては、子供の時から長い間住み慣れた京城から、母とも別れて、東京に行くのは、何か淋しい気もしましたが、それでもやはり、新しい生活が開けるかとおもえば、嬉しさのほうが強いようでございました。

 


 

 東京に参りまして、次の年の11月に弓子が生まれました。

 


 

 だんだん窮屈な時代になってまいりましたが、それでも、会社が軍需会社だったもので、よそ様よりは不自由も少なく、比較的、楽な暮らしをしておりましたが、そろそろ空襲が危ない、「幼児疎開」というので、19年の9月、その頃いろいろお世話になっていました櫻井書店のご主人櫻井均様の、静岡県伊豆三津浜にございました別荘に、私と子供とが疎開させていただくことになり、英光は、会社の鶴見(神奈川県)の寮に入りました。

 


 

 三津浜には、この年から戦争が終わって、24年のお正月、私どもが東京に再び出て参りますまで、6年もおいていただいたのですが、一度もお家賃もさしあげませず、櫻井様には、ほんとうに、ひとかたならぬお迷惑をおかけしてしまいました。

 


 

 都合がつけば、英光は、三津浜にあわただしく訪ねてきましたが、ラジオで鶴見のほうが空襲と聞くたび、生きた気もなく、心配でございました。けれども、それだけに、気持ちにも、生活にも、張りがございました。


 

※その後、戦争が終わって、田中英光は妻喜代子と子供たちのいる静岡県三津浜に来て、会社を退職して、小説に専念して、ある程度、仕事の依頼が入るようになって、原稿料で家族が暮らすことができるようになる。

 


 

 できあがった原稿を持って、上京することもあるようになりました。たいてい、(だいたいという意味)その少し前頃、入党いたしました共産党の方の仕事もかねてのようでございましたが、上京の前の日は、そわそわ落ち着きません。

 


 

 「そんなに、嬉しいのですか?」

 

 と、ひやかすように申しますと、

 

 「子供が遠足に出かけるような気持ちだ。嬉しくってしようがないんだ」

 

 と、まるでそんな時の英光は、子供のように感情を隠すことのできない人でした。

 

 共産党のほうの仕事で、沼津市の共産党の事務所に下宿いたすことになりました。

 

 時々帰ってまいりますたびに「カボチャばかり食ってる。」

 

 と申しまして、お米や何か、たくさん持って帰りました。沼津に行きましてからは、帰るたびに、英光はひどく痩せてゆくようでございましたが、それでも、根が健康な人で、ますます、はりきっているようでございました。

 


 

 (この当時、日本共産党に共鳴する作家や映画監督は非常に、多かった。「白い巨塔」の監督山本薩夫、寅さんシリーズの山田洋次監督、作家の井上ひさしは、日本共産党びいきで有名な文化人)