真珠湾攻撃を受けたハワイはどうしてアメリカなのか | 気になる映画とドラマノート

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 アメリカが日本との戦争を決意したのは、ハワイの真珠湾攻撃だった。(一般のアメリカ国民は、そのように、教育されて信じている。ちょうど、日本人が、イメージとして、日本は、東條英機という軍人が上に立つ軍国主義によって、アジアに侵略して、アメリカに懲らしめられたんだな、という大枠を教育されたと同じように)

 では、そもそも、ハワイとは、いつどのようにして、アメリカの領土になったのだろうか。

 ハワイの王国を倒す「革命軍」は、アメリカからきた移民農民の白人農民が革命軍を資金援助によって、支えられていた。

 また、このアメリカ農民は、砂糖産業として、アメリカ本国の政府および資本と結びついていた。

 また、アメリカ人のキリスト教宣教師も増加して、アメリカ人宣教師らの影響は次第に教育、政治、経済の各分野へ広がっていった。

 アメリカ合衆国とハワイ王国の外交の発展は、貨幣経済の急速な浸透をもたらしたものの、後払いによる外国製品の輸入が急増した。ハワイ王国の財政は、あっというまに、悪化した。


 日本ならば、財政が悪化しても、なお、膨大な貿易黒字があったし、国内の貯蓄も多額だという条件はあったが、(最近の日本の話)ハワイの場合、国民貯蓄は少なく、貿易収支の赤字ばかりが累積した。


 1823年11月23日、ハワイ王国の王、リホリホは王妃のカマルルとともに、貿易問題の解消を求めてイギリス・ロンドンへ行く。


  しかし、リホリホとカマルルは、ロンドンで感染症にかかり、病死してしまう。


 リホリホの死を受けて、後継者には、10歳の弟、が即位した。


 これを利用して、アメリカから来た、宣教師たちは実質的な実権を握る摂政カアフマヌに近づき、ハワイのキリスト教化をすすめることに成功


 した。

 

 ハワイとは、アメリカ人宣教師とアメリカ農民移住者によって、まず、文化的に乗っとられた地域なのである。


 1887年の時点で、ハワイは、アメリカとは別のハワイ王国議会があった。


 政党もあって、野党には、アメリカ合衆国からの移民もいて、議員のロリン・サーストンは、秘密結社「ハワイアン・リーグを結成して、白人市民義勇軍ホノルルライフルズと結託した。


 彼らアメリカ出身者の団体は、カラカウアに対して新憲法の採択を要求した。


 これに対し有効な対策が取れなかったカラカウアは自ら組閣した内閣を解散した。


 ホノルルライフルズらアメリカ移民団体は、彼らが起草した新憲法を半ば強引にカラカウアに承認させた。これは、アメリカが、日本に日本国憲法を作ってあげて、二度とアメリカに逆らわないように、武力放棄をさせたと同じ手法だった。


 1887年7月6日に通称ベイオネット憲法によって、ハワイの伝統王権の弱体化が進んだ。


 カラカウアは強大化するアメリカ系勢力を牽制しようと日本に対して、友好関係を求めて、アメリカの影響力からの抵抗を試みたが、日本はまだ、アメリカから比べれば、圧倒的に弱小国だったので、アメリカの反発を懸念して、ハワイ王族との姻戚関係になりたいとの希望については遠慮した。


 1895年1月16日、王政復古を目指すハワイ人系住民の反乱があり、ハワイ政府軍はこれを鎮圧したが、白人の中に、死者も出た。


 リリウオカラニはこの件に直接関与していなかったが、弾薬や銃器を隠し持っていたという理由 で他の王族とともに反逆罪で逮捕された。


 リリウオカラニは王位請求をあきらめて、共和国への忠誠を誓い、一般市民として余生を送るように追い込まれてしまった。


 ハワイでは、選挙が行われたが、選挙権は白人に多く与えられ、白人のドールが共和国大統領になった。


 やがて、ハワイ共和国の支配層は、アメリカ合衆国に対して、併合してほしいと要望を出す。なんのことはない、彼らハワイの支配層の元々の文化的故郷は、アメリカ合衆国であるのだから、当然だが、ハワイの人々をだまくらかして、いいように、できる土地にしたのが、ハワイ共和国だった。

 

 1898年1月、キューバのハバナで起きた暴動をきっかけとして、 アメリカとスペインは戦争をする。


 この戦争は太平洋上のスペイン領土すなわち、フィリピンを、アメリカの国防戦略のため、有利なに戦局を展開するための恒久的な補給地が必要だという見解を生む。


 この時点では、アメリカはすでにハワイの真珠湾独占使用権を獲得していたが、これをより強固にするものとして、ハワイ併合派の声が大きくなったのである。


 そして7月7日、アメリカ大統領マッキンリーはハワイ併合 ための決議案に署名し、ハワイの主権は正式にアメリカ合衆国へ移譲された。


 1900年4月、ハワイ領土併合法が公布され、同年6月にハワイ領土政府が設立 された。


 この要職にはハワイ共和国下の官僚が就くこととなり、初代ハワイ領土知事として、元ハワイ共和国大統領であったドールが就任した。その後1900年基 本法と呼ばれる新法が布かれ、ハワイにもアメリカの諸法が適用されることとなった。これらは、もともと、アメリカ合衆国からおしかけた移民だった。


 ちなみに、このアメリカとスペインの戦争の時に、アメリカは、フィリピンを植民地とした。しかも、マニラを攻撃、多数の抵抗ゲリラを殺戮した。

 いま、フィリピン人が英語を話せる人が多く、スペイン系の混血が多いのは、このなごりである。日本も、スペインに支配されたなら、今の日本人は、スペイン系の顔立ちが多かったろうが、そうはならなかった。


 日米戦争の戦後、アメリカは、フィリピンを「解放してあげた」と日本の学者は、いうが、いまのフィリピンはとても、貧しく、水道も、ひかれていない地域が無数にある。


 比べて、日本が統治した台湾と韓国のほうは、アメリカ、イギリス、フランスが統治したアジア諸国よりも、教育、発電、水道の普及率は高い。


 また、北朝鮮とちがって、韓国には、日本の資金と技術支援が続けられたので、北朝鮮よりも、はるかに発展し、寿命も延びた。


 つまり、アメリカは、フィリピンを見捨て、今、日本が親身になって、さまざまな援助を、日本政府や、独立独歩の民間の日本人がフィリピンの人々に貢献している。


 以上、明白に、アメリカ人によるハワイ原住民の追い落とし、と乗っ取りの結果によって、ハワイはアメリカの州になっていた。


 そして、真珠湾攻撃は、日本は軍港を攻撃したのであって、市街地はまったく、攻撃しなかった。


 ところが、アメリカは、東京、大阪、広島、長崎、そのほか、住民の住む場所をなさけ容赦なく、攻撃したのだった