ポツダム宣言とはなにか | 気になる映画とドラマノート

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歴史とは史実を知ることではなく、まちがって記されて史実とされた事を正すことなのかもしれない。

そういう歴史もまちがいなくある。あまりにも、実際には、誤まって伝えられて、多くの人々がそう信じきっている間違った史実があるからだ。

 コロンビア大学出版局のコロンビアエンサイクロペディアは、ポツダム宣言について、米英ソ首脳会談によって発表されたポツダム宣言は、日本に最後通告をつきつけた、と説明している。

 実際はそうではない。日本に無条件降伏を促す最後通告は、アメリカ、イギリス、中国の三カ国の名によってなされ、首脳会談には、ソ連のスターリンがいたが、中国は会談にいなかった。

 首脳会談(ソ連、米国、英国)の結果をまとめた宣言も存在するが、これには、日本とは関係のない欧州処理についてのみの内容だった。

 どうしてそうなったかというと、トルーマン政権は、原爆実験の成功を知って、ソ連の力を借りなくても日本を降伏させうる・・・すなわち、戦後、ソ連の日本に対する権益の余地を少なくしたかったのだった。

 しかし、かといって、ソ連をはずして英米だけで日本への降伏勧告を行えば、「日本軍国主義の中国侵略をアメリカが阻止したのだという大義名分が希薄になるので、ソ連参戦に替わって、中国をポツダム宣言の主体に加えることに、アメリカはシフトチエンジした。

 日本で出版されているドイツ旅行案内書のポツダムの説明も、「日本の運命をきめるため、首脳会談が行われた場所」される。だが、これも、間違いなのは、ポツダムで話し合われたのは、欧州問題であって、日本問題を話し合ったわけではない。

 日本についてどうするか、話しあいがなされたとづれば、あくまでも、ホワイトハウスであり、そこで結論つけられた内容を、トルーマンが、中国の蒋介石と英国のチャーチルに了解をとって、ひとりで、発表し、ひとりで代筆署名した。

 ポツダム会議の目的は、チャーチルが欧州処理について、ソ連を牽制するのが、主目的で開催が提案された。

 チャーチルは、トルーマンがソ連のスターリンの東ヨーロッパ、ドイツへの覇権の野望にくぎを刺す機会をつくろうと思って、開催を提案したが、案に相違して、トルーマンはそうした態度を鮮明にはしなかった。

 つまり、英国には、あまり意味のない会談におわった。

 ヤルタ会談は、ルーズベルトが日本降伏を早めるために、ドイツ降伏後、ただちにソ連の日本攻撃開始を秘密裏に中国には知らせることなく・・・つまり、日本に情報がもれないように)約束させるために行われた。その見返りとして、ルーズベルトは、スターリンの樺太、千島列島の取得などを約束した。

 この時点で、原爆は実戦配備は不確実だった。

 チャーチルはヤルタ協定をただ承認しただけで、特段、英国の思惑は盛り込む内容ではなかった。

 チャーチルはルーズベルト存命時代から、日本に無条件降伏させるよりも、またそこに固執してソ連に参戦をもとめるよりも、むしろ、日本に寛大な条件を提示するほうがよいのではないか、と言っていた。が、まず、ルーズベルトは、このチャーチルの提案をしりぞけ、日本人は寛大な条件など提示しtげも、敗北をみとめやしないと言った。

 また、スターリンは、無条件降伏を日本に強いなくても、どうせ占領過程で、日本を解体できるのだから、無条件を求める必要などないではないか、と言った。

 アメリカ国内にも、チャーチルと同じ考えのグルーやマックロイはいたが、少数派であった。

 トルーマンとバーンズは、対日強硬派で、日本に無条件降伏を求めるために、ソ連に対日参戦を求めようとしたルーズベルトの継承者を自任していた。

 ポツダム会議とは、英国にとっては、ソ連の増長をおさえるために、米英の結束をみせつけたい思惑。
 アメリカのトルーマンにとっては、ソ連の対日参戦をもう一度確認したいという思惑だった。

 そして、会議の席上、トルーマンが原爆の完成を知ったことが、ソ連参戦へのあめりかの待望意識を失わせて、アメリカは急遽ソ連をはずして、蒋介石に通告のみをして、対日降伏要求を声明した。

 この時点でトルーマンはもはやソ連に対日参戦をしてほしくなく、したがって朝鮮半島にも、満洲、樺太にも出張って欲しくなくなっていたが、スターリンは、トルーマンの方針変更を無視して、極東の権益を手中にするため、対日参戦をいそいだ。

 同時にトルーマンは、東欧に対するソ連の野望については、極めて楽観的な態度に終始したので、チャーチルを失望させた。


 ルーズベルトは米ソ共存という幻想のもと、対日参戦をソ連に求めており、チャーチルは、日本軍国主義と天皇を結びつけてかんがえてはおらず、ルーズベルトとちがって、米ソ共存などという幻想が、東欧に共産主義の蔓延をもたらすにちがいないと考えていた。トルーマンはルーズベルトの継承者にすぎなかった。

トルーマンの副大統領時代に、ルーズベルトは、ヤルタ会談でスターリンに対日参戦を依頼したことも、原爆を開発中だということも、教えてはいなかった。

 トルーマンは就任から12日後、はじめて原爆開発計画について陸軍長官に聞いた。

 ヤルタでルーズベルトがスターリンに対日参戦を依頼した事実は、1955年(昭和30年)まで、アメリカ国民に知らされなかった。

 間違いない事実として知っていたのは、リーヒ統合参謀本部議長、ハリマン駐ソ大使、ロシア語通訳の係官、スティムソン陸軍長官。マーシャル陸軍参謀総長だけであり、トルーマンには、友人のスティムソンがその事実を知らせただけで、それは密約であり、正式条約でもなんでもなかった。

 ルーズベルトは、自分の生きている間、約束が履行されれば、満洲、樺太、(朝鮮は指呼の間)をソ連にわたし、欧州は米ソ両国で友好的に管理するつもりだった。

 チャーチルはこの考えを愚かな幻想だと考えて、ソ連の対日参戦なしに、条件提示で日本と講和すべきだと考えていた。