満州事変の頃 続 | 気になる映画とドラマノート

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厳選名作映画とドラマを中心に、映画、テレビ番組について、思いついたこと、美麗な場面、ちょっと気になる場面に注目していきたいと思います。

 中公新書「軍国日本の興亡」という本を読んでみると、意外なことがわかる。

 


 

 一般に日本には、護憲派で、本来憲法9条を文字通り実行すべきだと言う陣営と日本以外の国、例えばドイツのように、自国の軍を、憲法の上でも、実質的にも保有するべきだという二つの陣営があるようなイメージが確立されている。

 


 

 が、この「軍国日本の興亡」の著者は、当時防衛大学の校長という公的な立場でありつつ、表明しているのが、憲法を改正して、集団的自衛権を持つべきだといいながら、もっと重大な事を言っている。

 


 

 その重大な事とは、①関東大震災で日本人(町内会の普通の人々)は朝鮮人を6000人、日本刀や竹槍で殺害した、という事②日本の韓国併合は、英国、オランダ、米国の植民地支配よりも、悪質だった。③日本は第一次大戦で「火事場泥棒」(129ページ)のような手段で国威発揚をした。④21カ条の要求は「火事場泥棒」(114ページ)

 

「中国への日本の侵略が、欧米のアジア支配と異なって、非難に価するのは、人類の価値観が変わったから。

 


 

 以上の5点を明確に表明しているのが、自主防衛論者だということは、防衛論以前に、こういう歴史観のほうがよほど重大な問題だと思われる。

 


 

 だいたい、現在の地震で想像してもわかりそうなものだが、予想もしない地震に襲われて、慌てている時に、名札をぶらさげているわけでもない朝鮮の人々をさあ、地震だと言って、次々にバッサバッサと普通の大工さん、左官職人さんたちが、6000人もの朝鮮の人々に襲いかかれると考えるほうがおかしい。

 


 

 だいいち、日本人も朝鮮半島から働きに来ていた人々も、地震による東京の大火で焼け死んだ人もおおぜいいたろうし、炊き出し、水汲みで大わらわだったろう。仮に、混乱の中で、不在商店や空家に入り込む人を撃退する争いがあったとしても、6000人ということはありえない。

 


 

 慰安婦20万人説と同じ類の誇張としか考えられない。ところが、これを大真面目に信じる人が実際にいるのだ。現在文芸春秋で連載中の福田和也「昭和天皇」にも、この関東大震災の項目で、「朝鮮人6000人」殺害と書いてある。

 


 

 いったいどうやって、6000人の遺体を数えて、それが大火事や地震の被害ではなく、殺害だと区別し、さらに民族別に判別できたのか、不思議でしかたがない。6000人ということは、およそ4000人の殺人犯が出現したわけで、大正時代はそんなに殺人犯は野放しだったのか、よくまあ、納得できるものだ。

 


 

 いまのロシアの男性の平均寿命が63歳であるが、日本が韓国を併合したことによって、韓国人の平均寿命が伸びた事実は覆せない以上、まちがいなく、日本の韓国併合は、西欧のアジア支配よりも、よいものだった、というしかない。

 


 

 中国への日本の侵略については、当時、1931年から1945年まで一貫して中国で普通選挙で選出された政治指導者は存在せず、民衆の意思を問う社会制度自体存在しなかった。その間、日本では11人の人物が首相になり、内閣が組閣された。この世に、絵に書いたような理想国家は存在せず、その時代ごとに比較してみるしかおかしな国の程度は測れない。

 


 

 戦前の日本は、あくまでも、他国と比較するかぎり、極端に閉鎖的でもなかった。

 


 

 1920年春に中国では20以上の主要な都市でいっせいに学生暴動が起きた。

 

 理由は、「日本に対する抗議」ではない。「イギリス・アメリカ・フランス・日本」の銀行団が、中国の軍閥官僚に資金援助する」ことへの抗議だった。

 


 

 この銀行団は、もちろん、アメリカのモルガン商会がリーダーシップをとっていた。つまり、中国で、民衆の意思はこの時、アメリカの金融資本家への非難の意思だったといってさしつかえない。学生の代表は「列国外交団」に明確にこのことを伝えたし、中国の地元新聞も、列国が中国に貸し付けるルールを作るなど、はむしろ、軍閥を大きくさせるだけだ、と反対した。

 


 

この時、学生ははっきり言っている。「中国国民を軍閥が殺害する資金を列国は貸してはならない」と。

 


 

 1923年、11月26日、蒋介石はソ連のコミンテルンで講演した。

 

「ワシントンに集まった英国・フランス・アメリカ・日本」は中国を搾取しようという目的で、中国国民党ではなく、軍閥に資金を貸し付けようとしている。

 

私、蒋介石は、ロシア、ドイツ、中国、三国の同盟を提案する。資本主義の影響力と戦うのだ。」

 


 

 これは、この時の中国が、英米フランス日本という世界の四大金融国がどこに貸し付けて援助すれば、その国の発展に寄与するのか、相手先に迷うほど、権力が分裂状態だったことを意味する。

 


 

 1927年2月には、ソ連共産党の指導により、上海の中国共産党の影響力の下にある労働者80万人が大規模ストライキをする。

 


 

 1925年から29年にかけて中国に滞在していたアメリカの国務省極東部長マクマリーは、

 

「「中国の行き過ぎた行動」によって、周辺国の利益と安全保障のシステムを掘り崩して行った」と評した。それはそうだろう。当時も、今も、例えば英国・フランス・アメリカ・日本の四カ国が相互にルール作りをしようという時にこれ自体を否定したら、どういうことになるか。実際に起きたのは、次々にはじまった単独交渉だった。

 


 

 マクマリーはこの単独交渉の横行がまずかった、と言っている。それはアメリカがまず、他国を出し抜き、次にイギリスが単独交渉に出た。蒋介石が、モスクワでロシア、ドイツ、中国、三国の同盟を提案する。資本主義の影響力と戦うのだ。と脅したのが効いたわけだが、マクマリーは、これが蒋介石の愚かさだと嘆いた。

 


 

 1927年10月の満州鉄道管理協定は張作霖とのあいだに交渉された。

 

 つまり、張作霖は張作霖、蒋介石は蒋介石であって、つまり、国際交渉の最終責任者が、複数いる状態だった。

 


 

 さらに、北方には、軍閥 馮玉祥フーギョクショーがいる。

 


 

 当時の中国というのは、はっきり言えば、織田信長、武田信玄、上杉謙信、伊達政宗がいて、それぞれの地域のことは、それぞれの親玉に話を通せばそれでようい、という状態だという意味では、近代国家の体をなしていない。

 


 

 仮に、ペリーが浦賀に来た時に、徳川幕府ではなく、織田信長、武田信玄、上杉謙信が存命であれば、ちょうどこの当時の中国の外交と同じ形になったと言ってもさしつかえないくらいなのである。

 


 

 南京政府、段喜瑞の北京政府、張作霖政権、馮玉祥フーギョクショー政権、毛沢東共産党、汪兆銘国民党と少なくとも6つの交渉相手があった。それらは、軍事的・財政的に独立して、指揮系統は分離していた。

 


 

 「満州事変から日中戦争へ」岩波新書の著者である加藤陽子は、96ページに、

 

「1924年、アメリカは対日本侵攻作戦計画オレンジプランを公式計画とした。」と書いている。

 


 

 この記述は、防衛大学校長だった猪木正道が「第一次大戦の惨禍を敬虔した人類の価値観が変わって、パリ不戦条約が結ばれた。しかし、日本軍国主義はこの価値観を理解しなかった」という見方のデタラメさを証明している。

 


 

 1924年の段階ですでにアメリカは、日本と戦争した場合は、日本本土に空爆をして、太平洋、東南アジアのアメリカ軍基地に攻撃に来る日本軍の補給を立つべきだ、と見取り図を明確に作成していた。

 


 

 現在、東南アジアの日本の戦跡が話題になると、日本の東南アジア侵攻という表現になるが、カンチガイもはなはだしい。そこに、アメリカ軍の空軍基地があったから、機能破壊のために行ったのだし、アメリカが石油を止めたから、原油のある国には、協定を結ぶために行ったのであり、征服が目的ではなかった。

 


 

 もし、征服が目的なら、戦後、バラエティー番組などで、日本人が訪問する時、老人が懐かしそうに迎えるはずもない。日本人は追い返せという家訓があるはずだろう。

 


 

 101ページに、加藤陽子は地の文で、自分の言葉で「欧州流国家総動員型総力戦準備」と書いている。・・・まさに、戦後、「日本は軍国主義」だった、と言っている事の実態は、日本が「欧州流国家総動員型総力戦準備」をいよいよ、アメリカに追い込まれた時に、鹿鳴館ふうに、背広やスカートを日本が着こなしたように、真似たとも言える。少なくともそれは、北朝鮮ほどにも特殊な軍国主義ではなく、欧州流国家総動員だった。

 


 

 さて、満州事変である。

 

 

 
  1. この時、当事者の東三省政権のトップは張学良で、これに対して南京政府蒋介石は、「外交権」だけを持っていた。(ちょっと前に、張学良は南京蒋介石に服属は示したが、財政・軍事は自立していた。その服属の意味は、外交権の委嘱だった。)

  2. 蒋介石は、国際連盟に日本の動きは不当な侵略だと提訴した。

  3. この時、連盟の常任理事国は、英仏独伊日で、ソ連、アメリカは加盟していない。

  4. 国連決議は、日本軍の「満州鉄道付近へ戻るように勧告」

  5. 日本政府は、関東軍を元にいた位置へ戻るようにする事を閣議決定

  6. (なんと)これを、中国は拒否する。中国としては、日本軍の過ちを元に戻すだけではなく、懲罰的結果をもたらせたかった。

  7. つまり、ここで、中国は、「関東軍がもともといた駐屯地に戻る」ことが、「日本に戻る」にまで変えている。懲罰的にかんがえているのだ。(外交経験のある顧維鈞は、日本の申し出を受け入れるべきだ、と主張した。)

  8. 1933年後半、中国国民党は、連盟に懲罰的対応を求めるのではなく、日本の現状復帰提案を受け入れるほうが、正しかった、と表明。

  9. イギリス外相もまた、中国の「日本に対する経済制裁を連盟や連盟外のアメリカに求める」のは、かえって、事態を悪くさせる愚行だ。英国は日本対する制裁に反対だ、とメモを残した。

  10. 中国政府に「日本への経済制裁」を依頼されたアメリカも、この時点でこの要請を不快に感じた。極東部長ホーンベックは、日本が撤兵要求に応じなくても「正しい」とコメントした。なぜなら、日本の動きは、「1915年の「南満州に関する条約上の権利」に基づき、正当だから、アメリカが介入すべきでない、というのだった。

  11. こうして、米英が中国の提案を意固地で国際法知らずな態度だと感じていたと同様に、外交経験者の顧維鈞は日本への制裁は行き過ぎだと思っていたのだった。

  12. 中国に「現状復帰案」を蹴られて、国連に経済制裁提案をされた日本政府は、国連に対して、「経済制裁されるような事案ではない」と突っぱねて、むしろ、

 

事態収拾は遅れることになる。

 
  1. このことが、後に蒋介石の後悔につながる。国際連盟やアメリカに訴えずに日本の提案を受け入れていれば、よほど簡単に、日本軍は満州事変前の状態に戻ったのだった・・・と。

  2. 国際連盟は日本軍撤兵期限を11月16日までとする。日本は拒否。

 

つまり、日本は、中国一国が了承するなら、撤兵するが、国際連盟がいうなら、撤兵しない、というわけで、アメリカの極東部長は、これを正しい態度たとしていた。なぜなら、中国との交渉は、国際法の問題ではなく、相手を尊重しての妥協だからである。

 


 
  1. これで、参謀本部の中に、満州国建国策動に突き進む機運が一挙に加速して、そうした、意見が出てくるに連れて、吉野作造などは、これでは、関東軍は「義和団」みたいな無鉄砲集団じゃないか?と日記に記したりした。

 


 

つまり、満州事変」から日本の国際連盟脱退までとは、最初に、日本側に「アメリカの極東部長やイギリスの外相が日本を特に悪いわけではない、としたように、国際法的な理があったが、これを仏独伊三カ国が、知らないふりをして、中国の「連盟による制裁要求」を飲んだ事が、日本の連盟に対する拒絶態度を呼び、これが日本国内における強硬派の増長を招いた、と言える。

 


 

 逆にむしろ、中国が連盟に訴えず、日本政府がすぐに現状復帰するから、という申し出に応じていれば、結果的には、日本は国内で満州国建国派を抑えることができたが、事態はそうはならなかった。

 


 

 日本は日本で、国際世論に法的正当性を訴えないと、なぜ満州鉄道があるか、なにもかも、ただ「なぜそこに日本人?」式に言われてしまうと困るというので、米英だって知っているではないか、という態度を取ったことが、国内の強硬派を増長させるきっかけになり、32年の選挙では、「戦争を危惧する選挙演説」が増えてくる。

 


 

 これが、満州事変の外交上の皮肉な意味であって、英国からアメリカまで、総じて軍国日本を非難していたという構図とは違う。

 


 

こうした満州事変初期の英国・米国の外交専門家からする日本正当論が忘却されて、東京裁判では、あたかも、日本軍国主義が満州事変から既に一貫した共同謀議を持っていたかのように起訴されることになる。

 


 

日本がヒトラードイツのような明確な意図を持った軍政府一体の侵略思想国家ならば、中国に単独交渉に応じてくれれば、撤退する、と提案するはずもない。

 

中国がそこで応じれば、満州国建国もなかったとさえ言える。また、日本が英米の外相レベルで両方が日本を非公式に理解しているという自負心が連盟の要求をはねつけて撤退しない選択になり、これがかえって国内の強硬派に力を与える皮肉な結果になった。このように、きわめてゆるゆると事態が悪化していったのが実態のところを、まるでヒトラーファシズムと同じ一貫した軍国主義なるもので突き進んだようにイメージされている。

 


 

中国もまた、1931年には、広東派の湖 漢民コ・カンミンが蒋介石を批判。上海の汪兆銘が広東派に同調して、蒋介石は失脚。こちらは、日本とちがって、選挙も議会も関係なく、ひたすら、権力闘争が続いていた。

 


 

 蒋介石失脚後の国民党政府はふたたび、日本に柔軟姿勢に転じて、日本の東北全域の商祖権を友好的に認める方向で提案した。満州事変は日本よりも、むしろ軍閥張学良に責任がある、とした。

 


 

 が、この交渉は日本軍が東北部の張学良軍閥を掃討するために行った錦州攻撃のために中断する。

 

1932年から1933年、ソ連では農民に数百万の餓死者が出た。

 


 

 こうした国内の混乱のさなか、スターリンは満州国を全面的に認めて、満州国を認めない中国国民党を「ペテン師の集まり」と罵った。同時に日本に対して不可侵条約をソ連のほうから提案した。なぜならば、数百万の餓死者の出たソ連には、北方アジアで紛争が起きた場合に、まったく対応する余裕がなく、なにがなんでも安定することを望んだ。それは、中国の軍閥支配による不安定な満洲よりも、日本の指導による満洲国のほうが、安定しているからで、これを認めない中国国民党をソ連は憎んだ。

 


 

 英国は英国で、世界恐慌の余波で、国内の失業が31年250万人。32年270万人と悪化していた。

 


 

 国際連盟のリットン調査団のリットン氏に与えたイギリス外務省の方針は、「国民党の実質支配の及ばない軍閥支配地域に、日本のような法治国家のプレゼンスを妨害することが、よいことなのか、疑問である、と示唆された。

 


 

 アメリカ国務省の方針は、日中直接交渉にみちびくべきだ、というものだった。

 


 

 リットンの報告書4章には、「日本の軍事行動は、合法なる自衛措置だ」とあった。そして、満洲国については、

 

「民族自決の例として認めない」とした。

 

「満洲における日本の利益は承認するべきだ」「日本製品ボイコットは不当であり、豆類を日本に対して高く設定して、利益をえていた」と書いた。

 


 

 イギリス外務省極東部顧問プラットは、日本に理がある、と見ていた。

 


 

 アメリカ代表のマッコイも、リットン報告書を日本は満足するだろう、と考えた。

 


 

 では、どんな点が日本側にとって、不満だったかといえば、

 

連盟は、

 

日本側が主張する、清国が「南満洲鉄道に並行する鉄道敷設を行わないという約束をした」という主張を認めない。(それは口約束だった)

 

南満洲鉄道沿線に守備兵を駐屯する権利を認めない。それは、正しくは、警察権拒否の権利であって、駐兵権ではない、というのが連盟の判断だった。

 


 

これが日本側からすれば、1905年の日清条約で、「清国が自ら治安維持できるならば」撤兵する、という条件付きで承諾を得ていた、という主張とぶつかっていた。