映画と文芸作品の評価の価値基準 | 気になる映画とドラマノート

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映像作品と文芸作品、その優劣の基準

作家や映画監督が憲法改正問題や、
「原発廃止か続行」かで意見表明する場合がある。

 これらは本当は、「知識人で教養が高く、誠実そうな人物の登場する本を書いている」あの人の意見だから、正しいのではないか、という宣伝効果になる。

 作家が意見を表明したからと言って、それを知った一般の人の「熟慮しようという誠実な意欲に助けには、まったくならない。

 そして、その有名人が、原発反対でも、賛成でも、また、皇室尊崇者でも、天皇制廃止論者でも、作品の価値を判断する基準は、そうした政治思想とはまったく関係がない。

 関係がないというばかりか、はっきり、これが基準だと言ってもよい。

 直喩、換喩、暗喩を、今は亡き多くの日本人が共有してきた、和語、漢語からなる国語を駆使してみせること、そして、その言葉の駆使が、読む者にとって、見事だな、と思えること。・・・・ただこれだけなのであって、そこに描かれる主題が、権力者を嫌悪しているとか、女性の権利を尊重しているとか、文明の矛盾に批判的だ・・・などという主題は、本当は、まちがってようと、正かろうと、ほとんど、作品の価値を左右しない。

 そうした意味内容、テーマが仮にまちがっていても、直喩、換喩、暗喩を、今は亡き多くの日本人が共有してきた、和語、漢語からなる国語を駆使してみせること、そして、その言葉の駆使が、見事なら、曽野作品は後代にも、間違いなく、読み応えある、文芸作品ということになる。

 映像作品も同じで、公害を扱っているとか、原発被害の苦悩を描いているということは、映像作品としての、価値、永世性の基準にならない。

日本の戦後の歴史が本当に偉大だとすれば、このことが解明できた、ということにある。

 映像作品では、価値は、どのように、現れるか、を示してみる。

 溝口健二「近松物語」

1.このシーンは実際には、現代の「ヘタな映画」では、やらない(やるべきなのに、価値がわからないから、やらない9演出がなされている。

 撮影と同時に、いっせいに、配置したエキストラにそれぞれの動きをさせて、「街並み」雰囲気を演出している。
 つまり、これからはじまる物語は、こうした町人たちの行きかう市井の物語だ、という事を示している。そのために、カメラをクレーンに吸えて、全体をとらえている。


 

 2と3は、人物の会話の背景で、常に、丁稚や番頭がそれぞれの仕事をしているんだ、という店の日常風景を示すことを意図している。
しかも、作品内のセリフにかぶらないように、すかさず、「おいでやす」と言わせている。
現実には、こうはならない。ことばは、現実では、かぶってしまう。
 2








このシーンは、たぶん、何度も繰りかえして、撮影して、女優の動きがリズムカルになるように、そして、絶妙なタイミングで、背後から、声がかけられ、最後に男優がせきをして、場面転換の終わりになる。個々で、男優がごほんごほんとせきをするのは、けっして、途中であってはならない。

 つまり、こういう精緻精妙な演出の配慮が、現代映画では、すでに多くの場合、失念されている。