原発反対の論理と倫理 2 | 気になる映画とドラマノート

気になる映画とドラマノート

厳選名作映画とドラマを中心に、映画、テレビ番組について、思いついたこと、美麗な場面、ちょっと気になる場面に注目していきたいと思います。

原発反対の論理と倫理 2

かつて反核運動が盛り上がったとき、反核運動に賛成しない文学者を、特定し、あぶりだすために、雑誌「群像」が、文学者にいっせにアンケートをつのって、意見をあぶりだす試みをした。

この時は、ごりごりの左翼で知られる大西巨人氏も、愚か過ぎると、批判していた。

どうもこの手の運動というのは、政府に反対する側は、名簿を作ることに血道をあげたがるようで、原発反対運動でも、ネットでは、「原発推進派」有名人一覧というサイトがいくつもある。なんのために、そういう名簿をつくりたがるのか不明だが、テレビのレギュラーだったり、雑誌の連載でもしていたら、集団でスポンサーに圧力をかけて、ひょうりょう攻めにしたいということか。

なぜこういう試みがばかげているかと言うと、そうした名簿ふうのものを気にする当人が、ただ原発に対する見識を深めることが、唯一重要なことであるのに、誰と誰とが、推進派か、ひとのかおぶれを見て他人に教えることが、何か意味のあることだと勘違いしているからだ。

これは、もちろん、反対派の名簿に興味を持つのが馬鹿らしいことと同じだ。

わたしは、きょうの、ある新聞で、かつて原発事故前に、テレビのコメンテーターをしていたある女性が、その後原発審議委員だか諮問委員だかになっていた人が、最近の放射能に対する恐怖を過剰だと、批判していたのに、背筋の寒くなる思いがしたので、このことを書こうと思ったが、この女性の名前を失念したので、例のあほの名簿を見ればわかるかと思ったが、そこを見ても、なくて、結局網羅はしていないのだ。

わたしは、その女性文化人の放射能恐怖否定論に背筋が寒くなったのではない。

ここで、まず整理しておくと、たとえば音楽家の坂本龍一のように、本来音楽家が反対論を述べる場合、日本では、誰も自分の意見を止められることはない、という意味に過ぎない。それは、逆も同じで、漫画家、音楽家、作家が原発肯定を言っても、「カンでそう思う」と言っているわけで、では、「カンで言うな」という社会ではないのである。

ところが、わたしは、なにが背筋が寒くなるかと言って、今の世の中、タレント、アナウンサー、医師、弁護士出身の、ワイドショーコメンテーター経験者が、原発の諮問委員会委員だかなんだかそういったものに選ばれる。選ぶほうは「庶民目線」のつもりだろうが、わたしの考えでは、何出身であろうと、いったん原発のような重要なものの、諮問委員に選ばれたら、そうとう大きな精力を傾注して、海外の動向、など極力情報を集め続けるのがスジだと思う。

 ところが、くだんの、この女性、諮問委員(だかなんだか)に事故前に選ばれて、いっぱしの、文化人でございという立場にいながら、福島原発が、数ある原発のなかでも、とくに脆弱であることを、指摘したわけでもなければ、保安院と喧嘩していたわけでもない。

どうやら、その、無責任ぶりが自分でわかっておらず、推進側もみんなで想定外だったんだ、と安心しきっているらしいのに、わたしは、驚いた。

脱原発、反対派の人々は、当然あれが起るべくして。起こった事故だといいたいだろうが、(神話ゆえに)ところが、事実はそうではない。諮問委員以外の、専門家で肯定派の人物が、福島原発は、二次電源バックアップが必要だ、と週刊ダイヤモンドに書いていたのである。



諮問委員も、保安委員も、これをスルーしたわけだ。

わたしが、背筋が寒くなったのは、こののんきな精神をまのあたりにしたからだ。