ハルモニの唄を読む。 第1回
著者は川田文子さん。
岩波書店月刊誌 「世界」2012年8月号に掲載されました。
この文から、引用し、感想を書きます。
この回は、連載3回目にあたります。
1.まず、最初にパク・ユンギョムさんが大阪に来たいきさつが語られます。
パク・ユンギョムさんは、1922年生まれです。
「16歳のとき、日本から帰郷した兄から、日本には、夜学があると聞き、一年だけ勉強するつもりで大阪の平岡に来た」
この時、パク・ユンギョムさんは、朝鮮総督府施政下の朝鮮に暮らしていたのです。日本をひどく嫌悪していなかったと思われます。なぜなら、一年勉強してみようか、というくらいの気持ちで日本にいこうと思ったというのですから。
さて、日本についたユンギョムさんは、「実際には、ファスナー工場で働きはじめて、学校には行かなかった」そうです。
結果的に16最で日本に来て、ファスナー工場で働き、そのまま、韓国には帰らずに、17歳で結婚します。
パク・ユンギョムさんはおもしろいことを言っています。空襲の後、みんな強力して、はしごにのぼって水をかけたりする。
日本の女性は、パンツをはかずに腰巻を巻くので、はしごの下から見えてしまうの。朝鮮の女性はパンツをはいてチマをはくのよ。だから、日本の女性も、だんだん、パンツをはくようになったという話。
次に陳 今善チン・グンソンさんの体験が語られています。
この女性は1930年生まれです。
「幸せなこども時代を過ごせたと羨ましがられることもあります。
小学校に入った時も、お洋服を作っていただいたり、あつらえの革靴を作ってもらったり。
県立藤枝女学校に姉妹で通いました。
姉は学級委員長をしました。
朝鮮人の仲間は、女が学校に行って、どうする、と非難したものです」
※戦前、そして敗戦後、日本人は在日朝鮮、韓国人の人々をはなはだしく差別したというのが定説になっている。
しかし、陳さんの証言では、同じ朝鮮人が、学校なんか行って、と非難して、日本の藤枝女学校の日本人同級生は、陳さん姉妹を同級生として、なんらこだわらずに、学級委員長に迎えていたのである。
では、陳さんの父親は、どのようにして、日本にきたのでしょうか。強制連行でしょうか。
陳さんは言います。
「叔父と二人で日本に来て、トンネル工事の反場を請負い、母と姉を呼び寄せた」
もし日本を、殖民地主義者、七奪したとうらんでいたなら、こなかったでしょう。ところが、家族を呼び寄せているんですね。日本に来て、嫌な差別をする人だらけでも、がまんして、呼びよせたのでしょうか。違うと思います。
「陳さんのおとうさんは、日本人の親切な家主に、薦められて、カフェをはじめた」のです。
次に、パク・ボンネさんは、1931年うまれです。
こどもの頃、三人の姉が日本に行ったそうです。これも、「強制連行」じゃないです。自分の意思で日本にいったのだそうです。
ポンネさんは、両親が病死したので、叔父のいる千葉の館山にいくことになりました。
下関についたボンネさんを、叔父さんは待っていなくて、とても心細かったそうです。
そこへ、朝鮮服を着て、朝鮮語を話すおばさんが通りがかって、このおばさんに駆け寄って、叔父さんへの連絡を
してもらった。このことが、戦時中の話であることは、次に語られえる話でわかるのですが、戦時下、日本では朝鮮服を着て歩いていても、とくにひどい差別をしていなかったことがわかります。ひどい差別をしていたら、のんきに朝鮮語を話して朝鮮服で歩けませんから。
ポンネさんは空襲で焼け出されて、会津若松駅の近くの広田駅に着くと、子供たちが、「ホイトがきたー」と騒いだそうです。
すると、日本人の駅員が、「この人はホイト(福島県で乞食のこと)じゃないんだよ。戦争で焼かれてこういう格好をしているんだよ」と言ったそうです。