ハルモニの唄を読む 第2回 | 気になる映画とドラマノート

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ハルモニの唄を読む 第2回目は、

雑誌「世界」2012年10月号に掲載された著者川田文子さんの「ハルモニの唄」第5回の紹介をさせていただきます。

金粉蘭キム・プンナムさんの語る在日体験

「一人息子が軍に召集された日本の農家の人が、ある日、金粉蘭キム・プンナムさんをにくれないか、と言ってきたそうです。息子が戦地から帰ってきたらいっしょにさせたい、と。」現在の日本の感覚では、考えられないことですが、当時の日本人の感覚では、日本人同士でも、親戚知人の結婚紹介で顔も見たことのない人と同士で結婚することは、ほとんど普通といっても、いいくらいのことでした。

 この話は、むしろ、この農家の人が、朝鮮人だから、と避けたりせず、見ための雰囲気でなんとなく人柄がよさそうだと思って申し込んだとしてもよいようです。

 ところが、むしろ、金粉蘭キム・プンナムさんの父親こそ、相手の人品もなにも、関係なく、朝鮮人は日本人のところに嫁にいかない」と怒ったそうです。

 結局、プンナムさんは、兄の紹介で同じ朝鮮人の男性と結婚します。

 ところが、兄は、妹のプンナムさんを紹介するかわりに、博打で作った借金をチャラにしてもらっていたのです。

 当時の普通の意識で、民族差別の意識もなく、嫁にきてくれないか、とていねいに申し入れた日本の農民と博打の借金と引き換えに妹を結婚させる兄。どうなのでしょう。

 これは、意図的な中傷ではなくて、プンナムさんが自分で言っているのです。

 さらにひどい事実がわかってきます。夫は、朝鮮に妻を残して来て、さらに、博打の貸しに、プンナムさんを強引に妻にしたのです。

 しかも、岩手にさらに二人の女性と関係を持っていました。

 そして、さらに別な女性ができて、この女性とはこどもももうけました。

 あきれるではありませんか、在日の苦難の体験なのに、日本人の底意地のわるさではなく、まさに、朝鮮人男性の性質タチの悪さが語られているのです。

 プンナムさんは、履物もなく、ゴミ箱をあさるような暮らしでした。

 日本人の肉屋さんが、豚足を分けてくれて、これを煮て食べて、飢えをしのいだこともありました。

 日本人は、プンナムさんを、底意地悪く見捨てることはしなかったのですね。

 この朝鮮人の夫は、放蕩を繰り返しながらも、戻ってきて、やがて、東京、江東区の砂町の鹿島建設の下請けの小室組の飯場を任されたそうです。

 ※これも、ほんとうに日本社会がはなはだしい差別社会で、黒人差別のように、バスにものせないといったようなものなら、「飯場をまかせる」ということはないでしょう。

 また、小室組は、多少の前借も融通してくれたそうですから、これも、もし、「朝鮮人このやろう、朝鮮人このやろうといったような社会なら、前借などありえない話でしょう」

 プンナムさんは、飯場の炊事をして、70人分のごはんをひとりで準備したと言います、大変な重労働だったでしょう。

 忙しいので、自分が食べる時は、立って食事をしたそうです。

 水汲みは、重労働だった。しかし、当時の女性としてはめずらしく、そしてたくましく、プンナムさんは、バイクの免許も取って、バイクで買出しにいくようになる。

 やがてそのうちに、水道通り、楽になってきた。

 そして、仙台で世話になった親子の友人が訪ねてきて、一緒に働くようになった。

 プンナムさんのこどもの送り迎えは、その17歳になる娘がやってくれたので、助けられた。

 そんな中、夫はまた遊び歩き、半裸同然の格好の女をキャバレーから連れてきたりした。

 娘は、その頃の思い出を語る。
「母に対する父の暴力はすごかった」と。

 プンナムさんは、飯場の前に放置してあった三輪自動車を見よう見真似で運転を覚えて、屑屋つまり、廃品回収業をして、女手ひとつでこどもを学校に通わせます。

 廃品回収業の免許がなかったので、警察で聴取されたこともありました。女性ひとりで、心細かったことでしょう。

 日本の警察は、徹底的に冷たいわけでもなく、廃品回収業の許可証をくれたそうです。

 金粉蘭キム・プンナムさんは、どんな苦難にも、負けずに働いたのです。敬服に価しますし、ほんとうに頭がさがります。

 1963年金粉蘭キム・プンナムさん、36歳のとき、再びあの暴力夫が舞い戻り、今度は、二人でバキュームカーをローンで買って、汲み取り式便所の糞尿汲み取りの仕事をします。

 バキュームカーのホースは重くて、女の力ではものすごく重労働だったそうです。

 そして、4年後、1967年、ほとんど休みなしに、旅行もなにもなく一所懸命にはたらいたのでしょう。日本の高度成長にも助けられて、会社は財産を残せたそうです。

 韓国の親戚に家を買ってやった。学校にテレビ、エアコンを寄付した。親戚の葬儀には、40人もの人々に大番ふるまいをした。

 この思い出のどこにも、日本人の激しい差別による被害は語られない。

 金粉蘭キム・プンナムさんの思い出を聞き取りした川田文子さんを労としよう。しかし、川田氏はこの金粉蘭キム・プンナムさんの思い出語りの冒頭に、副題を「苦労自慢」としている。

 なんというひねこびた言語感覚であろう、わたしは、金粉蘭キム・プンナムさんの尊く、不屈の生き方に心から頭がさがる思いがする。そこに、朝鮮人、日本人の区別もない、貴く、不屈な人間の姿がある。汗まみれ、ほこりまみれで、夫の暴力に耐えて、糞便をバキュームカーで集めたり、ゴミクズから廃品を集めたり、・・・いろんなことがあった、ぜいたくなどしなかった人生だったろう。
どうしても、「苦労自慢」などという言葉が、レトリックとしても、似合わないと思う。


 だいたいにして、わたしは、以前から、苦労自慢なんて言葉は、聞いたことがあるが、嫌な、嫌いな言葉である。苦労の思い出は苦労の思い出なのであり、聞く人は「大変な思いをしたんだなあ、と思えばよいのであり、苦労を自慢するなんて、わたしには、実感としてあるものではない、思うのだ。

 この世の中には、ただもう、苦労した、というしかない苦労の思いではあるので、苦労自慢など、むしろめったにないものなのだ。苦労でもないものを、苦労したという人など、よほどのアホウだろ、そんな人はめったにいないよ。