
稲津先生は師から学ばれた観点からと、実際に探訪成された《地獄巡り》の視点を元に次の如く仰せに成った…
霊的視野から見詰めて、最も優れた祖先達の古典『古事記』は、神界の消息を語り継ぐ天界の経綸、即ち、日本及び日本人の霊的因縁の解説書としての存在価値は霊学研究の最高峰に位するものではあるが、身近な霊界構造つまり日本人の霊的帰趨の在り場所を説いた書物は、何と言っても弘法大師『秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)』に記された《十住心論》を以て右に出るものは無い。
既に、日本人が心の内に抱く"心の赴く処"に従って、死後彷徨する御魂の世界を拙著『地獄』に依って観察し続けて来た様に、霊的日本人の御魂の遍歴を、霊界に見詰めた書物は、《十種の住心に因って分類された至極の仏果(さとり)へ導く教え"十住心論"》であろう。
弘法大師は、佛教思想を根底に置いて、日本の霊界を捉え、《教王護国の鬼》と化した。
霊界を解り切った立場から、天照皇大神の化身大日如来を霊統主として、加持成佛を説き尽くされたのである。
偉大な《霊界構造解明の書》である。
其後、日本人に拠る日本人の為の道の先覚者と成った道元·親鸞は、霊的日本人の霊的救済を獅子吼して『正法眼蔵』を残し、『教行信証』に生涯を賭けて、不滅の書を子孫に残された。
茲では極めて《明確な宗教の持つ意義·目的》が語り尽くされている。
"ただわが身をも心をも はなちわすれて 佛のいへになげいれて 佛のかたよりおこなわれて これにしたがひもてゆくとき ちからをもいれず 心をもついやさずして 生死をはなれ佛となる…"
道元禅師『正法眼蔵·生死の巻』
"諸仏諸祖の行持によりて われらが行持見成し われらが大道通達するなり。
われらが行持によりて 諸仏の行持見成し 諸仏の大道通達するなり…。"
道元禅師『正法眼蔵·行持の巻』
此の様な道元禅師の御言葉も、神道化された佛教から出た本旨である。
親鸞も又、霊界を肯定して極楽に成佛する事を説いた。
但、親鸞に於いては、極楽を分析して《二つの極楽》を説いた。
其の一つは、自らの欲望の充足…つまり、現世に積み残して来た物質的欲望の未だ成し遂げられなかった欲望を満たす事の出来る極楽。
即ち、《汎ゆる苦難が無くなると言う極楽》と、《天業に生きる極楽》とは違うのだ…と、極楽を二つに分けて、霊界を肯定している。
親鸞の師、《法然の念佛は極楽に行く事のみを説いている》が、《親鸞の念佛は天業を遣る為に極楽へ行くのだから、極楽へ行けばもう一度帰って来なければ成らぬ、だから同じ極楽でも、"御魂の志の在り方"に因って、真ん中の極楽と端の極楽が違うと説いている》。
結果に於いて《極楽を九品に分類》している。
つまり、霊学的に観れば、地獄の上の霊界六層…夢幻界·色彩界·光焔界·光明界·超越界·究境界…が有ると、霊界極楽の種類を肯定して人々を導こうとしている。
南無阿弥陀佛を称えたら"贅沢出来る極楽"に行く事が出来る…と、《地獄で無い極楽》…夢幻界でも良いとする…を肯定したのである。
親鸞の《極楽》に対する観察は、『真佛土往生』と、方便"佛土往生"即ち『化身土往生』とに分けるのである。
《阿彌陀如来の願》に乗託して"彌陀に任せ切って彌陀が引っ張ってくれる"。
そして、《彌陀の指図の儘に動く》と言う『真佛土往生』に拠る極楽を説いた訳である。
一方、《地獄で無い極楽》と言う、言わば"贅沢の出来る極楽"に赴いて、己れの欲望を充足せしめる『化身土往生』をと、《方便佛法を同時に説いた》と言う事で…。
どんな方法論で有っても良い。
陰鬱な地獄からの脱却を…と、霊界人間の九割を越す人霊が、地獄に堕ちて救われず、己れの盲目に気付かぬ儘、霊界下層に彷徨している。
『大無量寿経』に説く、阿彌陀佛が法蔵菩薩であった時に、立てられた《四十八願》、分けても《王本願とされる十八願》に託した親鸞は…
"一切の生あるものが至心(ししん)に信楽(しんぎょう)して、私の浄土に生まれようと欲し、わずか十声の念佛でも、称(とな)えた人を救えないならば、佛とはならない"と、教え主の面目を施し、《信の念佛に徹し、念佛他力門》の宗儀に精進した。
地獄の怖さと虚しさを此程悲痛に語らしめているものも少なかろう。
人間の御魂とは、返す返すも気付かぬ稚拙な魂の何と多い事だろう。
先覚者は皆、日本人の霊界を肯定して来た霊的人間の行く末を見究めている。
成るが故に、天命を担いし天界からの使者は嘆くのである。
呼べど応えぬ《まつろわぬ人霊達》の地獄絵巻に堕落している人霊…其れは現界·霊界を含み、生きている人霊達に幸い有れ…と。
其れは実に《悲しい願い》である。
《悲しい願い》であるが故に『悲願』なのである…。
そう語られた稲津先生は、其の悲しい程に美しく、虚しい世界、地獄では無い極楽と親鸞が語り分類した『夢幻界』の姿を幽世の大神様の御許しを得て、中化神龍師の直毘に映された『夢幻界』の中に入り込み探訪する旅に出たのでした…。
其処に住む住人は、紛れも無く《極楽を錯覚し続けている》のです。
我々も又、稲津先生の『夢幻界』の見聞記を通し、《贅沢出来る地獄では無い極楽》で今も繰り広げられている、悲しい真実の物語を垣間見る事が出来る機縁を得られた訳でした…。