死出の旅路の始まりから、霊界に無知であった僧侶達は責められて、聖職に従事する事の重さを知らされる事に成るのですが、生前彼等が務めて居た寺には常に餓鬼道に落ちた人々が屯している事を、何れ程の僧侶達が感知しているのでしょうか…。


単なる言葉の綾として、施餓鬼供養を単なる日常の儀式の一つとしてしか捉えて居無いと言う程度の無知さ加減では、冥府での出来事も宜(むべ)なる哉と言うものなのでしょう。


好く葬儀の後にお寺で『直会(なおらい)』と称して、皆が集って故人を偲んで飲み食いをする訳ですが、元々《『直会』と言うのは神道用語で、神道が本来葬儀を始め、死後や先祖供養と言うものを扱っていた》事の名残りの言葉でも有る訳ですが、実は佛教に於ける『直会』は法要や御盆の法会の後に行う『施餓鬼供養』と同様の施餓鬼供養でも有るのです。

皆さんもお気付きに成っていると思いますが、直会の料理…主に海苔巻と言った精進料理なので、何処で食べても味気無いと感じてませんか。見ると結構名の通った寿司屋の用意した寿司なのに、多分時間が経って味が落ちたんだろう…程度に以前は僕も呑気に構えていたのですが、霊界の実際を知ってからは、そうも言ってられなく成りました。

何処の寺でも、『施餓鬼供養』を待ち望んで居るのは昼食を抜いて来た生きた参列者より、墓場に屯する餓鬼道に堕ちた霊達なのです。


霊界とは言う迄も無く、肉体の無い世界なのですが、幽体も霊体も本体の所謂光の体、波動の体に成って居ても、幽界に在っては幽体が、霊界に在っては霊体が、神仙界、神界に在っては光体が、其処に住む方達には間違い無く"肉体の体"として認識されるのです。内蔵迄が有るべき場所に有り、心臓や脳が有るし、臍や排出器官迄もがきっちりと付いているそうです。勿論、神様達は形骸だけで機能する訳では無いので、食べる事も、排泄する事も無い訳ですが…。

だから神は、人間の食べれない苦しさひもじさが何れ程悲惨な事かを忘れている事が有るそうで、食べ物が無い事で身体に力が入らない、頑張れ無い事を度外視して仕舞う恐れが有るそうですから、「食べ物が無いので、何とかして下さい」と偶には口に出して御願いした方が良い様ですよ…真面目な話です。


つまり、神はひもじい思い、辛い思い、迷い惑い苦労した事が有る神々で無ければ成らない…つまり一度は人間として艱難辛苦を味わい、其処から禊をして、努力して悟りを開き神と再び成られた神だけが、我々の悩みや痛み、悲しみに寄り添って下さる事がの出来る神と成り得る訳です。

実は存在しないけど、例えば創造主と言った、人間に一度も成った事の無い様な神や天狗の様な自然霊は、人間と言うものが解からないから、遣る事が何処か冷たく薄情なのです。正しくても、杓子定規で画一的で何処か残酷なのです。


話が横道に逸れました…元に戻します。

御寺の墓場と言うのは餓鬼道の世界と繋がっている様で、寺には餓鬼が多く屯しているのです。

餓鬼がまともに口に入れる事が出来るのは、実は施餓鬼供養として出された食べ物だけなのですね。他の物は口に入れた途端に、皆んな炎と化して口中は大火傷を負って仕舞うとも言われているのです。

食すと言っても、《餓鬼も霊に変わりありませんから、物質としての形有る物は到底食べる訳には行かないので、精気としての食べ物を食す訳ですが、精気と言っても、霊界では精気がちゃんと食べ物の形として存在するので、餓鬼は現界で我々が手に取って寿司を食べる様に、矢張り手に取って貪り食べると言う事に成る》訳です。

《餓鬼に食べられた現界の寿司は、当然に其の精気だけが失せると言う結果に成る》道理です。

だから、法事の時の料理は、妙に味気無い事に成るのです。


観る人が見ていると、貪り食べる餓鬼の集団と人間が一緒に成って同じ物を食べて飲んでいる姿が賑やかに観える事に成るのです。

実は餓鬼が食した物を人間が共に食すと言う事は、餓鬼の因縁も共に頂いて仕舞っている事でも有る訳なので、其れが分かってからは僕は餓鬼に落ちたく無いので、なるべく料理に手を付けない様にしているのです。


餓鬼と言っても、皆同じ様な絵草紙に描いた姿形はしてません。

何をして餓鬼に落とされたかが違う様に、罪に因って姿形迄変わって仕舞います…と言う事は、生前の人間としての容貌なんかでは居られ無いのが、地獄と言う處だと言う訳です。

餓鬼道も地獄道の一部なのですから…。

現界の人間…つまり我々は如何にお気楽に地獄を想い、餓鬼に堕ちると言う事を呑気に考えている事か…。

相変わらず「地獄は本当に在ると思いますか」…的な疑問を呟く人が多いのですが、若し本当に有ったら、《地獄とは、どんな處なのだろうと、少しは突っ込んで考える方が居ても良いのにと思わずには居れないのです。

そう言う方は神が必ず道を繋いでくれると知っているものですから…》。

何故なら、《人と人とを因縁を通して繋ぐ事こそ神が縁(ゆかり)有る人に対して成し得る重要な任務》なのですからね。


神の仕事とは、『人と人とを繋ぐ事』と『分霊を発する事、つまり神は神を生む事』の二つであると、白日様も中化神龍師も《神の一番重要な任務である》と言われておられます。


さて、一口に餓鬼と言っても、犯した罪に因って餓鬼の種類も分かれて来るのです。

三十六種類も有るそうです。

どんな罪を犯すと餓鬼に成るのか?

此処からは少し真面目に読み進めて頂きたいものです。

《千人の内、九百九十八人は地獄か、餓鬼か、動物に成る》と言われていますので、冗談では済まない事実なのですから…。

餓鬼に喰えるものは先ず殆ど無いと言います。

墓に供えたもの、そして施餓鬼供養に出されたものだけが食べられると言うから、御寺に餓鬼が屯するのも道理なのですね。


つまり施餓鬼供養の食べ物は、元々餓鬼に施す為に用意されていたと言う訳です。

其れを知らぬ事とは言い乍ら、又、見えない世界の事だからと言って、放置するのは勿体無いとばかりに、我々は喰って仕舞う訳ですが…。

餓鬼に食わすものだから『供養』と言うのですが、其れを人間が《横取りする形で掠めて仕舞う》訳です。

白日様は…横取りするから、皆余計に餓鬼に成るのじゃ…とも言われていました。

我々が餓鬼に成る因縁を、直会の料理を食べる事で受けて仕舞うと言う事ですね。


では一体どんな罪を犯すと、人は餓鬼に落とされるのでしょうか…?

身口意で犯す十悪が人を地獄へと導く事に成りますが、殊に『貪りと吝嗇坊(けちんぼう)』其れに強いて言えば『嫉妬と邪見』が人を餓鬼に突き落とすのです。

どんな姿に成るのかと言えば…嘗て斎場の場で、確か三箇所程の斎場に、白日様が餓鬼達を種類毎に連れて参られ、観える方達に示されたと言う事が有りました。

一々三十六種類ずつ連れて参られた訳ですが、其の姿や臭いが余りに酷く臭いので、居合わせた方々が総てを観る事に耐えられなく成り、十幾つかで勘弁して欲しいと白日様に頼み込み、結局何処の斎場でも三十六種類全てを観ない儘で、斎場を終えるしか無かったと言う事が有りました。

本当の餓鬼達と言うのは、斯くも生前の人間と違っているのです。


《餓鬼に三障有り》と言う言葉が有りますが…大分以前にも述べた様に…餓鬼は鬼に追い回され、水に有り付こうとして砂漠の僅かばかりの水辺に近寄る事も出来ず、運良く水を手に掬った途端、水が膿汁に変り、結局膿しか飲めないか、水が火焔に成って消えて仕舞うと言う事を言ったのです。


白日様が『貪りと吝嗇(りんしょく)』『邪見と嫉妬』をもう少し詳しく説かれて言われました…

「『十の禍(わざわい)』が餓鬼に成る。身·口·意に於いて、ものを貪り、ものを惜しんだと言う先ずは…

《①身②口③意》で三つじゃ。

四つ目は④《多くの財を集めた》とな。

⑤《悪念を以て集めた者》。

六番目は⑥《嫉妬》じゃ。

人間は良い加減、立派な男でもジェラシーは持っているものでな…隣の家に蔵が建ったり、人が出世すると面白う無い。之も嫉妬じゃ。

其れから次は⑦《邪見》じゃ。

ものを僻(ひが)んで観る。ものを素直に観ない…邪(よこしま)に観る。

其れから⑧《身分不相応に財を死蔵して死んで仕舞った者》じゃ。良いか。財はちんと適当に分けて死ねよ。

九番目は⑨《餓死した者》も餓鬼に成る。

十番目は⑩《他人から捨てられて野垂れ死にした者》、之が皆餓鬼に堕ちると言う事に成る」…と。

人間的に観ると、理不尽と思える原因で餓鬼に成る者も居る訳ですが、殊に九、十番目なんかは可哀想と言う訳で、寧ろ同情を禁じ得ないのですが、神々の目線で観ると、此れも因果応報としての結末なのでしょう…他人に捨てられる因は己の生き様にあったと、反省する事無く流され続けた生涯だったからだと…。


そう成ったのは、導いてくれる主護霊が居なかったのでは無く、『無死の知らせ』を受け乍ら、我欲に執らわれ其れに執着して居る時は『無死の知らせ』の微かな囁きは心には届かないのです。心の波長が主護霊へと向いて無ければ、どんな救いの知らせも決して届かないと言います。

反省すると言う事は、心を主護霊へと向かせる事では為いでしょうか…。


貪り、邪見の中には邪教を説いた者も含まれるのです。

彼等は『魔身鬼』と言うものに堕ちるのです。

『佛教』等と大きい事を言っても、殆ど邪教と化している…と、白日様は言われました。

「儂も弘法大師は尊敬するけれど、同じ佛教でも現在の真言宗等と言うものは、あんなものはインチキじゃ。○山何某等と言う者が、密教を名乗っているが、そんなものは"弘法大師の密教"とは何ら関係は無い、只の淫祠邪教じゃ。

今の念佛宗なんてものは、抹香臭いキリスト教ではないのか?

中化神龍師の口癖じゃから言うが…まぁこりゃ今津洪嶽老師が言われた訳じゃが、《今の禅なんてものは、真に誤り歪んだ佛教者の製造じゃ…(以下略)…》とな。」…と。

又、其の邪教を説いた者と其の教えを信じて仕舞った信者の殆どが魔身鬼に成って仕舞うと言います。

「誤れる道を説いた者。其の御布施で生活した者。まぁ、先ず殆どの宗教家じゃな。

此れは御供え物が喰える。墓などの御供え物が喰える。

魔身鬼…ほら!弁当箱じゃ無いが、折詰みたいな物に群がって居るじゃろう。どうじゃ彌太郎、海尊…見えるか?此れは墓に供えたものじゃ。

どうじゃ…もうちょっと辛抱して見てくれるか?」

「中々、辛う御座います」

こんな遣り取りが記録に残っています。

如何に餓鬼道に堕ちて化身した姿と化す事が悲惨な事であるのか…其の一端なりとも、未だ生有る内に…生き方を変える事が出来る内に…知って置いて欲しいと思い、敢えて此度は『餓鬼道』に堕ちた方々に就いて記した次第です。