
白日(はくい)様が説かれて言われた…
『空』とは『矛盾の統一』と言う意味なのだ…と。
《色即是空で言う空とは矛盾の統一と言う事である》…と。
此れは神の世界のものの捉え方と言えるのかも知れないのです。
神霊の世界と言うものは、単調な世界では勿論無いのです。寧ろ複雑多岐に渡る世界なのだと師匠も白日様も仰せに成って居られる。
そして、明らかに一元つまり十二万九千六百年周期で動いていると言う。
此れは人間界の尺度での計算式から求められる数え方なのですが…。
神道では数字の三を重要視しているのです。何故かは分かりませんけど…一と月を上旬中旬下旬と分けたり、親子三代をワンセットと見做している事からも解りますね。
世の中の動きは、三と十二の掛け合わせから出来ていると言う訳です。
一日✕三十が一と月ですね。
十二ヶ月で一年。
三十年で一世。
十二世を一運と言います。
三十運で一会に成り、一期一会の一会(え)です。
そして十二会が一元と成り、掛け算すれば解る様に一元=十二万九千六百年と成る訳です。
此の十二万九千六百年を一つの周期として神の世界は動いていると言う訳です。
そして…「信じて貰うしか無いのじゃけれど」と白日様は仰有ったのですが、西暦で言う一九八一年から日本神霊が中心に成る一元が始まったと言われたのでした。
ところで、親と言うものはどうしても我が子の事と成ると贔屓目と成って仕舞うものです。
《親の此の煩悩が実は子供に執っては菩薩の愛とも言える》のですが…。
殊に日本民族と言うものは我が身に代えても家族、子供を守り抜きたいと言う、情に厚い民ですが、其れは多分に夫々の霊統主から受け継いで来た感情なのかも知れませんね。
つまり国津神と言うものは我が子の為なら鬼に成ってもと言う所が総ての国津神に等しい感情なのです。
《神と雖も、それなりの自我をお持ち》ですからね。
だから国津神は、己れの子孫可愛さの為に、他の国津神の子孫を犠牲にしてでも、我が子孫を…と言う気持ちが国津神々には皆有ると言います。
だから国津神同士では治まらないのです。
人類前史の最後を担当召されたエホバの大神と雖も本質は国津神の一柱ですから…ユダヤの民族神でしたから。ユダヤの民の為なら帝釈天の民であろうとも…と言う訳です。
世界全体の平和と言うものは望み得ないのです。
其処に天津神が出陣する事に成ると白日様は仰られる訳です。
天津神とは『太陽神界』の神々と言う事です。
此の太陽神界と直結するのが日の本の天皇家なのです。
一般の人は殆ど霊統主を国津神に持つ事に成るので、一般なら日本の国も国津神にしか通じ無いと言う事に成ります。『神集獄神界』にしか通じ無いと言う事です。
宮地水位先生の霊統主は少名彦那之大神様ですからね。其処を生前の先生も神界の総てと勘違いされた事は以前お伝えした通りです。
アッラーの大神、帝釈天、ティワナ大帝と言う五大霊団の統率神と雖も皆国津神様ですからね。
一人日本神霊団だけは直系の天皇なる神籬を持っている為に日本神道に於いてのみは、《『日界』と言われる太陽神界に直結している》と言う訳です。
そう言う様な意味合いで、国津神同士はどうしても啀(いが)み合うものなのだと言う訳です。
天津神が出て来ないと収まりが付かない、争いを押さえる事が出来ないと言う訳ですが、天津神が出て来たからと言って、天津神が単純に力関係で押さえ付ける訳には行かんと言う…其れでは国津神同士と何等変わる所が無いですからね。
但し武力は見せて置かねば、交渉が出来ませんから…力無き正義は無力ですからね。侮られないだけの武力は示さなければ成らんと言う訳です。我々人間界と変わらないですよ。
神様は結局、人間世界の延長線上に在るのです。
国譲りの神話は其の事を言っているのですね。
《国津神と国津神、皆に処を得しめ、皆に納得を与えねば成らない》と言う訳です。
皆に満足して納得して貰わねば成らないのです。
だから中化神龍師の『第三の文化』は日本神霊団の思想でもあると言えるのですが…。
人間界とは夫々の国津神の子孫達ですからね。
社会主義も自由主義も、結局はキリスト教エホバの神から生まれた理論理屈ですから。
第三の文化は、此の社会主義の彼方、自由主義の彼方を言っている訳です。
社会主義に満足を与え、社会主義者も成る程と言い、自由主義者も成る程と言い、其処に初めて真の社会主義と自由主義が一致する訳です。
其れを『第三の文化』と言っているのです。人間を導く指導原理と言ったのは、そう言う意味だった訳です。
此れも駄目、あれも駄目、之で無ければ行けないと言う事では無く、どちらも納得の行くもので無ければ成らないと言う…実は此れが冒頭に述べた『空の思想』と言う訳です。
空とは『矛盾の統一』と言いました。
《片や自由、片や平等と言う絶対統一不可能な此の矛盾する自由と平等を、矛盾無く纏め様と言うのです》。
否定と肯定を矛盾無く纏めると言う事です。
否定の有る事は肯定が無いと言う事です。同様に肯定する事は否定の無い事ですね。
此の矛盾した否定と肯定を、糊と絆創膏で貼り合わせると言った、例えば福祉と言った折中論で無く、本当に一つに纏める事を『空』と言っている訳です。
そんな馬鹿な事が有ろう筈が無いと言うのが人類前史を覆って来たのですが…自由の有る処に平等が無く、平等の有る処に自由が無いと成れば、自由の上に立つか、平等の上に立つかとして争いに明け暮れて来たのが、此れ迄の人間の歴史だった訳です。
《纏めると言う事は折中論では無い》のです。
《"正反合"と言う様な弁証法的統一では無く、"正と反と其の儘"であり乍ら此れを統一する。此の『矛盾の統一』と言う事が『空の思想』》に有るのです。
実は《此れが『天津神が行われる国津神の統一』なのです。国津神を権力…力で以て押さえ込む統一では無いと言う事》です。
《相手に納得を求めた『自覚的発展』であり、然も其れが神界に於いては既に見事統一されている》と言う。地上は未だ其処に至っていないのですが…其処に至ろうとするのが『松の世』でもある訳です。
論理の世界では、「そんな馬鹿な!」と言う事であっても、知性の世界ではそんな事が有る筈が無いと言う事であっても、一旦、知性を捨て、命の世界、般若の世界に於いては、其の不可能と思える統一も見事に起こると言います。
地上世界は現し世…映し世なのです。神の世界を映した世界が我々の地上世界なのですから。
知性の範疇に居る限りは、矢張り自由と平等が矛盾無く一致する世界は何処にも無い…と言う事は命の世界、般若の世界を地上の指導原理としなければ成らないと言う事です。
其処で中化神龍師が用意したのが『第三の文化』でもあるのですね。
国津神同士では纏まらないのです。
天津神が統一すると言うのは、地上的表現をすれば、権力の支配でも金力の支配でも無い…宗教と言うか、知性を超えた所に其の統一が有るのです。
知性の範疇に於ける自由主義に非ず、社会主義に非ず、資本主義に非ず、共産主義に非ず、即ち個人主義に非ず、全体主義に非ずの所に中化神龍師の『第三の文化論』が有ると言っている訳です。
つまり、其れが『全一主義』の上に立っての所謂『道統主義』を立て、其の上に『統調経済』を立てると言う様に、例えばマルクスが間違っていると言うなら、マルクスを越える思想、経済、政治、哲理の答えを持たずして単に間違っていると言う限り其れに対する答えを持たずしては世間の只の批評家に堕するだけで何も言う資格は無い…と其の答えが師の『第三の文化』でもあるのです。
神界の知性を超えた事を説くにしても、人間界の知性の満足は満たす哲理が必要に成ると言う訳ですね。