凡そ『宗教』と言うものは、洋の東西を問わず、世界的に観ても扱って来たのは『個人の魂の安心』であり、『個人の行方』と言う《個人》を単位に於てものを扱って来たのですが、果たして本当に《個人》と言う存在だけと言うものは有り得るのか…と、中化神龍師は疑念を抱かれました。そして、以下の如く中化神龍師こと国師三上照夫師匠は語られました…


「私が言いたいのは、《本来"個人"と言うものは有り得るか》と言う事。

《人間は社会的存在》であって、個人としては有り得んのです。

《佛教は殊に一つの原因に依って一つの結果を生むとは申しません》。

因縁に拠ってものが生まれると言いますのが、現実に、因と縁と言う二つの原因に拠って結果が生まれると言う事を、代表的に《『因縁』と言いました。其の"因"と言う中に、多くを含む言葉であり、"縁"と言う言葉も多くの原因を含む言葉です》。

仮に"縁"と言う言葉を代表的に申しますと、《縁と言う言葉は、『助縁』と『不障』と言う言葉に別れます》。


『助縁』と言うのは、《積極的に助けると言う意味》に成ります。

例えば、其の辺の生り物とか、田畑の世界を中心に申しますと、寧ろ肥料に当たる事かと思います。

でも、肥料を与えれば物が出来るのでは無く、矢張り其処に虫に喰われない様に、二百二十日、二百十日の風が来ない様に、四季温度等の天候に恵まれます様に、つまり、之を『不障』と言います。障り無しと言う事です。


つまり、《"縁"と言う言葉には、積極的な助けに成るものと、消極的な助けに…邪魔しないと言う、此れどちらも"縁"と言う言葉に成りましょう》。

種子と畑が有って物が出来る。

因と縁に拠ってものが出来る。

其の畑の側の縁にも、不障·助縁等と佛教は分けます。

何れにしても、《多くの原因の結合に拠って一つの結果を生んでおります》。


《西洋は『因果律』…原因が結果を生む》と、こう申しますが、《佛教は『因縁果律』》であります。

《『因縁果律』…と、其処に縁と言う畑を加え、半ば多因説の上に…多くの原因説の上に一つの結果を招く》。


然すれば、《『個人の魂の安心』であっても、『個人自体が社会的人間』として生きている訳ですから、其の社会的人間としての社会性、此の多因の、多くの分野を占めて、助縁·不障の多くの分野を又更に占めている》と言う…。

例えばです。

人間は本来『佛生』を持っている。

《人間は本来佛と成るべき、神と成るべき可能性を内在している…と言っても、其れは『"因"の世界』であって、ダイヤモンドも磨かなければ、ダイヤモンドとしての結果を生まん》のです。

其の辺の原石の儘では、結果を生まんのです。

惟と同じ様に、《縁に触れて初めて在らしめる世界に拠って、初めて本来在るべき姿のダイヤモンドがダイヤモンドとして完成する》のです。


御無礼な言い方ですが、其の縁の中に於ける最大のものが師匠であるとも思います。

良き師匠に触れずしては…道元禅師は

「正師(しょうじ)を得ざれば学ばずに如(し)かず」

…と、正しい師匠を得なければ、正しい導きが無ければ、ダイヤモンドとしての真の芽生えが無いと言う意味で、「正師を得ざれば学ばずに如かず」…《正しい師匠たるべき縁に触れなければ、誤った縁に触れれば、却ってダイヤモンドを傷付ける結果に終わらんとも限りません》。


《縁の中の最大のものとして、良き師匠に触れ得るかどうか》。

斯く申します、此の三上も厳しい方では御座いましたが、今津洪嶽と言う師に触れたが故に、歪(いが)みなりに今日の状態の三上を作り得たかとも存じます。


此の様にして《佛教は…否、東洋の宗教は多因説…多くの原因に拠って、一つの結果を招いているのであって、一つの原因で結果を招いているとは申しません。

だから『因縁果律』であって、『因果律』と単純には申しません》。


こう言う所が、皆さん方、非常に複雑ではありましょうが、是非とも心にお留め頂きたいと思っている次第であります」…と。