人は誰もが"この世"だけの一度切りの人生と言うものを終えて消え去るのでは無いのです。

誰もが"この世"に生まれるに至る原因、理由と言うものを、生まれる以前に持って居るのです。

ズバリ言えば、其の理由·原因は《前世》に有る訳で、《前世》の無い人間なんて存在しないのです。

『前世を知る子供達』と言った本が時折出版されますが、何もそう言った本に取り上げられたり、或いはテレビ等で"驚くべき前世を記憶する子供"だなどと騒がれる人達だけの問題では無く、誰もが普通に前世の生まれ変わりであり、全ての記憶を宿しているのですが、然し乍ら、今生を生きる上では少々邪魔に成る記憶でも有るので、地上を生きて行く間に徐々に記憶の表層から失せて仕舞うだけです。


此の世界は、《半苦半楽》の世界です。

其の世界に在って、大変な苦労を誰もが味わい、そして安堵や喜びを味わい、心の平穏とどう仕様も無い焦燥を知り、時には妬みや嫉妬に心を掻き乱され、そして時に成功と達成感に酔い痴れ乍ら、何か一つの事を成し遂げて、或いは何一つも人生の生きる意義を見出だせない儘に、人は"この世"を去って行くのです。

其れは、"この世"が、どう解釈仕様と《霊的には修行の世界》には違い無い事だからなのです。

《前世の記憶》を持ち続けた儘では、其の修行と言う点に於いては、邪魔に成る事が矢張り多いのです。況してや凡人で我欲に振り回されてばかりの我々に於いては、過去の人生の記憶や、己れが遣り遂げて来た過去の事跡の記憶は魂の向上の為に成らないと言うのは明らかです。

何かを知ろうと、心を込めた苦労や達成感が得られる事が必要なのです。心を込めた苦労や達成感が無い限り、其れは《心の糧》には成りません。

其れこそ、無駄で無益な一生を歩む事に等しいと言う事です。

だから、前世の記憶は内在意識の奥深くに仕舞い込まれて表層には、普通は上って来ないのですね。

但し、中には霊界側の意図する何かが有って、記憶を保持した儘の人も居ると言う事も事実ですが…。


だから、知っていようといまいと、信じ様と信じまいとも、人は《前世》の《己れの願い》の結果として"この世"に誕生し、《前世の願い》に沿って今生を歩み、願いの中味を味わうか、或いは願いとは懸け離れた儘に"この世"の人生を終える訳です。

地上を生きている間に《新たな願い》を抱き、更に霊界に帰ってから、気付いた《前世の願い》が《新たな願い》と相乗した願いと成って、今度は来世の生まれ変わりを生み出すと言う事が、つまり霊的に観た人の生まれ変わりと言うものの一つの姿と言う訳です。


例え、霊界に帰った霊界人で有っても、《前世》の影響は地上に居る人間同様何処迄も変わら無いのです。

僕のブログで度々取り上げさせて頂いて居ります、霊界見聞記等を記されて居られます稲津先生も霊界構造を紐解くと言う重要な御役目を神様から命ぜられたからと言う訳では無いでしょうが、御自分の《前世即ち御主護霊》を御存知なだけで無く、御主護霊にも親しく交わられて居られます。

凡そ八百年程前の御方です。

一方、先生を案内して下された御方の前世も又先生の前世と同時代の方だったのです。

前世の満たされなかった願いと言うものが、如何に今生の人生を彩り綾成すかと言う事を、此の御二人から学びたいと思います。


当時…つまり稲津先生が地獄行脚を成されて居られた時、地獄の学校にて教鞭を執られていた方は、清宗公と言って、前世は平家の公達だったのです。

最初は其の事を秘されていた訳ですが、其れは稲津先生の前世が平家と戦った源家に属して居られたからかも知れません。

けれど、愈々清宗公御自身の地獄での暮らし振りを語らねば成らない地獄第五層に差し掛かり、遂に正体を明かされたと言う訳でなのです。


そもそも、何故平家の公達…其れも平家の中では身分の高い御曹子でもあり、文武に優れ、人格即ち霊格とて高いと思われる清宗公が、地獄第五層に堕ちねば成らなかったのか…。

平清宗公と言えば古典『平家物語』や吉川英治が天界からの"無死の知らせ"を見事に受けて書いたと言われている『新 平家物語』の中では、余り有能な指導者としては描かれていない平宗盛公の嫡男です。


因みに吉川英治の膨大な作品群の中で霊感に因って作品が書かれたのは二つ有ると言われています。一つが『新平家物語』であり、もう一つは『私本太平記』です。


清宗公は父上宗盛公共々、『吾妻鏡』には元暦二年六月二十一日の条に…壬申 卯の剋 廷尉(義経)近江國篠原にて宗盛公を誅し、次に野路口(のじぐち)に至り、堀彌太郎景光を以て子の前右金吾(清宗)を梟(きょう)す…と有ります。

此の堀彌太郎こそ稲津先生の前世でした。


清宗さんは地獄第五層を案内するに当たって稲津先生に次の様に語られました…

「八百年の昔、今をときめく平家公達に非ざれば人に非ずと奢りを極めた私達の一統も虚栄の幻影の前に敢え無く滅びて行きました。

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響き有りと、後世琵琶法師達の語り草と成って、栄華を極めた清盛公の全盛時代。

都大路を練り歩く牛車の手綱に伴われ、春の宴に舞を観て優雅を楽しむ極楽の虚栄。艶やかな能衣裳に一際晴れやかな鎧兜。

伴の者を引き連れて昼夜を分かたず通い詰めた御所車に殿も女御も一時の狂宴に夢を現(うつつ)を時めかし…私の父君宗盛公もそうでありました…。


八百年の源平の確執は今の私には遠い彼方の幻影に過ぎません。勿論、一片の心に懸る遺恨も有りません。今は大神様の命ぜられる所に従って天命を果たすのみ。

此の様な機会を与えて戴いた事に感謝し、何れ程の喜びを与えられたか筆舌に尽くせるものでは有りません。

私の任務は貴方様の地獄界七層への御案内を勤める事に総てを賭けております。

地獄界は広大にして粗雑、一片の良心無き粗暴な輩達の醜い魂の無反省な者の堕ち行く境涯。

軽薄で無秩序で奢り昂ぶる者の神無き世界。

案に違わず虚栄の市(地獄第四層)も、私達一統の落人や武士(もののふ)の未だに救われざる地獄絵にものの哀れを誘います。

平家の武士も源氏の武士も、其の家族達も…特定の人を除いて大差は有りません。

宿世の業を担いで源平の争乱に参画した殆どの武士が、或る者は私の様に八百年に渡り地獄に苦悶し、でも…八百年は永う御座いました。

又、或る者は地獄から転生し、貴方様の現界に生まれ変わって居る者もいます。」…と語られた清宗様が、八百年前に首を落とされた現場を観て、何を思われたのか…其れが如何に其の後の永い人生を規定して行ったと言うのか…。


清宗様はやや緊張の面持ちで臨まれました…清宗様に執っては第五層とは、近江篠原宿で斬刑されて後に堕ちたと語られた地獄なのです。そして、其の原因を次の様に繙かれました…。

「総ては自らの想念に基いて発した世界に、軈て帰結する。

西海の夕陽に沈んだ平家一門の思いを一心に集めて…矢張り自分の死の間際から死の直後の刑場での無惨な姿を見詰めて、さしもの私にも源氏に対する明瞭な怨敵を意識し始め、軈て怨念霊として霊界に蘇り凝結して唯物論者に成り果てた。


枝垂る若葉の川瀬の淵に晒す面輪(おもわ)に悲しみの栄華の果てぞ世の無常 六條河原に宿世の因縁(えにし)思い睦(むつ)ぶる父子(おやこ)の千切(ちぎ)り 髻(もとどり)切れて柴垣(しばがき)の夜露に濡れて釣り忍ぶ。

如何せん罪悪深重此の身の所業 過去世の因果露時雨(つゆしぐれ) 噫々(ああ)片時として恨む心の忘れ路の都(ふるさと)恋し京の宿 今は悲しき咎人(とがびと)の変わり果てたる我が姿 父と子の首虜(しゅりょう)川面に双つ 映る浅瀬に夕陽ぞ沈む…と」

そう語られた清宗公は、六條河原に晒されて死の直後から霊界へと旅立たれたた訳ですが、如何にも自分の醜怪な姿に何時しか憎悪の心念が芽生えて行くのを自覚致したそうです。


清宗公は当時を回想し乍ら、"己れの恥話"でありますがと前置きして語られておられます…

「貴方様(つまり稲津先生の前世)に刎(くびは)ねられて…篠原の宿を後にしたのが三日の後の事でした。身体は藪の片隅に埋められて、首級のみが都大路を練り歩く。罪科(とが)を受けた身の処罰は当然の事乍ら当時の風習とて仕方の無い事とは言え、丸太に髻(もとどり)を結わえ付け、二人の人足の肩に担がれて夜露に晒された醜怪な面輪(顔)を見せしめに街道に立ち塞がる物見の群衆に嘲笑(あざわら)われ蔑(さげす)まれて…軍(いくさ)は非情、勝てば官軍負ければ賊軍。

其の汚名を拭い去る事は如何ともし難く…六條河原に晒されて行きました。

其れから、間も無く幽界で目を覚ました私は、余りに無残な自分の姿に…然も変わり果てた父上の首級の哀れさに…凄まじい憎悪が心念を発し、やんごとなき口惜しさに襲われるのを覚えました。

此の屈辱を如何にして晴らさんかと不虞(ふぐ)な運命とは言え、密かに報復を誓ったのです。


此れが当時の武士の気骨であって、我々の一統の血統の掟でもありました。

時に十七歳の春…父からは儒学を学び、日夜武術の稽古に身を鍛え、世の無常を儚んで佛を学び仏門への帰依を志し乍ら…でも、歴史の変動の間に翻弄されて…其処では容赦無き宿命(さだめ)が…もう二度と後戻りの許されない栄耀栄華の幻影のみが、遠い淡い蜃気楼を画き…後には波間に転覆した一隻の小船のみが…何時しか姿を消した母船を慕う様に漂流している…」


武門平氏の惣領平宗盛。内大臣の嫡子として、其の首級は其の載せる台に於いても供饗(くきょう)が使われては居たが、所詮は獄門の身に、梟首(きょうしゅ)を都大路を曳き廻しの上で、六條河原の獄舎の門に髻を結わえ付けられて、大勢の群衆に見上げられ指差され乍ら、道行く人の哀れを誘う平氏没落の象徴の何ものでも無い訳です。

獄舎の門前に父子(おやこ)の罪状が書かれた捨札が夜来の雨に濡れてどんよりと佇んでいたと言う…。


「たった一隻の小船でも良い。怨讐の彼方に今一度報復の一矢を報いて一統の胸の内を晴らさんと…武家の家に生まれ、貴族として育った一門の誇りに於いて、何時しか此の屈辱を慰めんと。

壇之浦に沈んだ一統の散り散りに別れた哀しい波間にたった一隻の船を浮かべ、時の来るのを待ち佗びておりました…。


死の直後から、幽界を経て霊界へと赴いた世界は、紛れも無く地獄。

然も、第五層へと堕ちて居りました。

其処では敵愾心に燃えた敗残の将兵が一国の転覆を企て、破滅と破壊を以て喜びとする亡国の輩の屯する處、革命と暴力の戦士を駆り立てて、其れを養成する、戦争扇動者の街だったのです。

でも、私に執って此の街は源氏一族への報復を実行する指呼(しこ)の間(かん)、一向(ひたすら)に此の街を愛したものでした…」


軍(いくさ)は哀しいものです。

勝利する者も被害者成れば、敗れ去る者も被害者である。

然し、敗れた者の一族に於いては、権力も栄華も田畑も家も、屋敷も家財も総て没収されて、其の害七族に及ぶ。

誰しも一族の再興を願って蘇られるものならば…と。其の執念に燃えたとしても、其れを苛む事は出来まい。

清宗殿とて、矢張りそうであったと言う訳なのです。


嘗て敵同士として呉越同舟として、進む地獄の道に軈て、果てし無く続く土塀作りの外壁が恰も中国の万里の長城かと思わせる様に広がりを見せて、立ちはだかって来たのでした。

世に言う、此処が地獄第五層『唯物論者の街』です。


地獄の学校で迷える霊人が、地獄脱出の機縁を得させ様と、日夜奮闘成さる清宗さんが堕ちた地獄は戦士養成の為の『唯物論者の街』だったのです…。

報復に燃えた思いが、此れからの"この世"に生まれ変わって地上生活を如何に歩むのか…何も知らずに生まれた末魂としての清宗公の人生は紛れも無く、源平時代を戦って生きた清宗公の願いの儘に生きて行く事に成るのです。


人は皆己れの前世と共に生きて行くのです。


次回は『唯物論者の街』とはどんな處か、そして清宗公がどの様に過ごされたのかを紐解いてみたいと思います。