嘗てソ連のスパイとして逮捕された、共産主義者であった尾崎秀実と言う人が『死線を越えて』と言う著書に次の様な一文を残しています。

"共産主義の最大の間違いは、一方に個人を置き、一方に人類を置き、此れを其の儘に結び付け様とする…此れは結び付かないのだ。

此れを結び付けるにも紐がいるのだ。

其の紐は家族であり、大きくは民族であり、個人は家族を通じ、民族を通じて人類に通じる事が出来ても、個人が家族や民族を飛び越えて一足飛びには人類には繋がらない"と。


佛教と神道の相違と言うのも、理論的には此れと相通じるものが有るのです。

佛教の中でも《悟り》とか《宇宙》や《空》と言うものを具体的に扱っていると言える『禅』が最も佛教と神道の相違と言う事を観るには相応しいかと思いますが、『禅』即ち『佛教』は一気に…宇宙の結晶だとか一元生命として森羅万象全てはとろけ合っていると言う結論に到達しているのですね。

勿論、少しも間違っていないです。


神仙界に御在します御神霊が説いて語られました…

大事な事は、『神道』は先ず此の《個人と宇宙を繋ぐ》のは、つまり《個人である我々と宇宙を繋ぐ、其れは夫々の主護霊の他には無い》と。勿論、主護霊だけで繋がる訳では無く、《主護霊、主護神と更に上に昇り行く訳で、更に更に遥か昇った霊統主へと繋がって初めて宇宙へと繋がる》と説くのです。


つまり、"人の体は家族でもあり、民族でもあると言う様に、結論は同じではあるけれども、此れを繋ぐ紐を説くのが、主護霊であり、主護神"と言う具合いに説く訳です。

主護霊を通じて各も各もの霊統主へと…例えば、日子穂穂出見之大神とか少名彦名之大神である様に夫々の霊統主を通じ、神々に通じ…其の神々は生命で皆出来ているし、我々も皆同じ様に生命で出来ている…だから、生命で出来ている宇宙に繋がる…と、神道は説く訳です。


つまり、《宇宙に繋がる》と言う結論に於いては何等変わる所では無いのです…要するに、佛教と神道は哲理的には全く同じなのです。

哲理的に別物と観る所に過去の上宮太子に対する見当違いの解釈なんかが生じて来たとも言える訳なのです。上宮太子即ち聖徳太子の人物像が曖昧に成った事から、遂には聖徳太子不在説迄発展して仕舞う訳です。

当時から、上宮太子は佛教と神道が哲理的に同根であるとの立場だったのです。

世の学者も宗教者も何も分かっては居なかったのでした。


神道は哲理上は佛教と何等変わる所は無かったのですが、具体的には末魂〜主護霊〜主護神〜霊統主〜宇宙つまり個人〜家族〜民族〜世界…と言う訳です。

何が言いたいか…一足飛びには繋がらないのだけれど、紐を通じてなら繋がるから、だから《神道には躍動が有る》と言う事なのです。

躍動が有ると言う事は、俗っぽい表現をすれば、《だから神道には御利益が有る》と言う事なのですね。


神と…つまり、紐を通じて私達は繋がるのです。だから、其れ丈生命の躍動が有ると言う訳です。

哲理としては佛教と同じなのですが、紐と言うものを説いて有る為に…生命のステップが説いて有る為に生命の躍動が有る訳です…お解かりでしょうか。


三上山と言うのは、実を申すと、富士·阿蘇·霧島に降って来られる神様の中継放送を成す山なのです。

「矢張り中継放送を通じ無いと、一足飛びには伝わらない」…と御神霊は表現されていました。

まともなエネルギー、まともな叡智と言うものは、矢張り此の様な"段取り"を通って来なければ我々にも通じ無いと言います。


『禅』も『神道』も"我等が宇宙の結晶体であり、神も宇宙の結晶体生命で出来ている"と言う、即ち《我も宇宙の結晶体生命で出来ている》から、とろけ合うのだと言う訳です。

哲理としては正に其の通りと言う訳ですが、『神道』は更に"一足飛びに、我と宇宙とは飛ばずに、我と宇宙の間に主護霊、主護神…霊統主を通じてから、神々を通じて宇宙と一体である"と此の生命有る紐の存在を説くのです。


《紐が有るから、中継放送が有るからこそ本当の御利益が有る》と言う事です。


だから、道元禅師でも、「諸佛は必ず御在します」と言い、真剣に諸佛を拝ましているのです。

此処が日本佛教の一つの特徴だと言う事に成ろうかと思います。

道元禅師は"神々"と言わずに、"諸佛"と言っているだけの事であって、《神霊》を拝んでいる点に於いては同じと言う事に成ります。


自分を"この世"に生み、"この世"の運命の主体たるべき主護霊が、最初に結ばれている紐であると言う事が判ったならば、矢張り主護霊に御礼を申し上げ、且つ拝むと言うのが順序と言うものかと…違いますか。

主護霊を拝めば、主護霊が色々と助けてくれると言う事も亦当然の事でしょうね。


漫然と"我は宇宙なり"とか"我は宇宙の結晶なり"と頭に描くだけでは、宇宙は些か遠くて繋がれ無いのです。

そんな事よりも、身近な主護霊を拝み、主護神を拝み、霊統主を拝み、霊統主から他の神々に繋げて戴き、神々に繋がって宇宙への繋がりを持つと言う事で、宇宙の叡智が我に流れ入る…と言う流れの方が解り易い事に成ります。


つまり、『神道』の方は、宇宙への繋がりの蛇口として説いていると言う訳ですが、若し主護霊が判明したなら主護霊を拝む事です。


『禅』と『神道』は哲理に於いては全く同じなのですが、『神道』の方が少々親切で芸が細かいと言いますか…真に躍動性が有ると言う訳ですね。

其の代わり、拝めば大きなエネルギーが本当に来るから、いい加減は行けないと言う事に成ります。

神々に嘘を吐いたり、約束を破っては成りません。

昔から"触らぬ神に祟り無し"と言ったのは、本当に神様には力が有るので、其れ丈御利益を受ける其の神様に嘘を吐くと代わりにバシッと来るからなのです。

だから昔から"触らぬ佛に祟り無し"とは言わないのです。

神様は怖いのです。其の代わり"力が有る"のですね。


『佛教』と『神道』が狙っているものの相違と躍動の相違が解って貰えたでしょうか…。