「こんな事が好くに有る」と"良く視える人"から、聞いた事が有ります。

亡くなった方が"あの世"で「困った困った…」と言って居ると言うのです。

其の場に蹲り周りの瓦礫をひっくり返しては何かを捜して居る様に視えるので、「どうしました」と意念を投げ掛けても、語り掛けて居る事に中々気付いてくれ無いそうですね。

其れは"何かを無くした"と言う思いに凝り固まって仕舞い、第三者の呼び掛けを"心が中々受け付け無い"からです。

人の心と言うのは、何か一つの事に執着して仕舞うと、其れ以外のものは見えなく成って仕舞うのです。

だから、神の霊波も、其の様に執着している者の心には届き難いと言う事に成るので、「執着するな」と常々神は仰せに成る訳です。

「今直ぐ助けたくとも、無死の知らせの届け様が無いぞ」と言う訳ですね。

其れと同じで、焦って"何か"を捜し続ける事に凝り固まってている霊も、已む無く暫く放って置くしか無いのだそうです。時には何日も放って置く事に成ると言う事も当然有り得る事に成るのです。


死ぬと言う事は当然肉体を脱ぎ捨てる事なのですが、幽界に行っても本人には幽体は肉体と同じ感覚ですから、生きている時に霊体とか幽体と言った事の正しい知識を学んだ事が無い為に其処には思いが至らないのです。

其れで幽体で居るのだけれど、本人には肉体の儘で居るとしか思えない上に、瓦礫を始めとして周りに在る物は、物質世界そのものの様に存在感が有り、感触も有りますから、当然尖った石は喰い込めば痛いし、血も出ますので、とても今居る世界を"あの世"とは思え無いと言う訳です。

ところが、不思議な事に例えば履いていた草履が石に躓いた拍子に脱げ落ち様ものなら、草履は即消えて仕舞います。掛けていた眼鏡でも落とせば、矢張り消えて仕舞います。

其の為、必死で周りを探す羽目に成ると言う訳です。消える筈が無い…と言う地上での常識に縛られてますから。

此処が死後の世界である事に思い至ればまだ増しなのですがね…。


棺に一緒に入れた小物や愛玩品と言った物は全て身体に密着させて居なければ幽界には持ち込めないから、仮に草履なんかを足元に揃えて入れて遣っても、身体に密着して居なければ即ち履かせて遣って居なければ、結局裸足で幽界…此処では厳密には《冥府》と言う訳ですが…の瓦礫だらけの中に放り出される事に成るのです。


そして冥府では、歩いて居る最中に身体から溢れ落ちた物は全て掻き消えて仕舞う事に成って居るのです。

体に密着して居る間だけは本人の所有物なのです。

手放した瞬間に全て消えると言う事は、心が身体を形成していると言う事に他ならないからです。

霊界では、身体が心の表れなのです。

心が身体なのです。

肉体が無いと言う事は、そう言う事なのです。

身体から溢れ落ちたと言う事は、心から其の物に対する思いが無くなったと言う事と同じなのです。

だから消えるのですね。

だから幾ら捜しても二度と現れない訳です。

然し、そんな事は知りませんから、何時までも探し続けるのです。

困った事に霊界には、"この世"で言う時間が有りませんから、"探す"と言う行為に執着するとあっと言う間に所謂時間が経って仕舞うのです…皆さんも好きな事に熱中すると十分しか経っていないと思っても、気付けば二時間位経っていた等と言う経験をした事が有る筈ですが、霊界と言う処は正にそんな世界なのですね。

本人に執っては数分間探し倦(あぐ)ねたと思っても、地上世界から観ている者には何年も経って居ると言う事に成る事も有ると言う訳です。

地縛霊と言うものも本人に執っては一瞬の事故等の恐怖や苦痛に固まって其処に留まって居るだけでも地上世界から観ている者には何十年もへばり付いて居る事に成ると言うのもそう言う訳なのですね。

ですから、霊界の一層を抜けるのには四千年掛かると言うのも或る意味良く解ると言う訳です。

《拘りを持つ》と言うのは実に恐ろしい事でも有ると言う事ですね。

だから、霊能者辺りが浄霊します…と声を掛けた位で、其の祈りが届く道理は無いと言う事です。

仮に届いた場合、地縛霊は苦しさの余り目線が合うと言う縁を手繰って霊能者に縋り付いて仕舞うのです。霊能者は背後に縋り付かれたのには先ず気付か無い様です。

能動力が無い訳ですから…主導権は常に霊側に有ると言う事。

端から観ていると、霊が縋って居ると思ってもいない霊能者が「浄霊しました」と得意気に言って居るテレビなんかを好く見掛ける様ですね。

話が逸れて仕舞いました…。


冥府では、裸足の儘に放り出された霊が酷く苦労する事に成ります。自分の身内が裸足で苦労しない為に、出来れば靴を履かせて遣るのが理想では有るのですが、火葬場に因っては靴だと焼いてくれ無い所が有るので、折角履かせても、焼く前に陰で靴を脱がされたら意味が無いので、やっぱり草履…其れも厚手のものを、きっちり履かせて上げたいものです。

そして、紐か何かで摺り落ちない様に《後掛け》をして遣る事です。

勿論、杖も紐で手首に硬めに縛り付けて持たせて上げる事です。

杖は三途の川を渡る際には蛇を払い除けるのに役立ちますから。


では、草履が脱げて仕舞ったり、裸足で行って仕舞ったりした場合はどうしたら良いのでしょうか…。

師匠の様に神通力を使える方が近くに居られれば苦労しないで済むのですが…能動力が有りますから履物の幽体を持って行って貰えば事足りる訳ですから。師ならば造作も無く草履の幽体を届けて下さるでしょうが…所謂、凡人である私共はどうしたら良いのでしょうか…。


此処では霊能者も《凡人》と観ていますから…念の為。

霊能者の中には、幽界を視る事が出来て、霊が何かを探して居ると言う事は、確かに解る方も居られるでしょうが、如何せん能動力が無い為に、只眺める事しか出来ないのです。

実は、霊界の一部を視る事、聞く事が霊能者に託された務めだったと言う訳です。

見たり聞いたりした霊界の真実、実相を視る事、聞く事の未だ出来ない一般の人達に伝える事こそが霊能者の霊能者としての任務なのですね。

《霊界は実在する事を世に知らしめる事》が、霊能者に託されているのです。


嘗て、御釈迦様の弟子目連尊者は悟りを得て霊界を見透す事が出来る様に成りましたが、未だ未だ深き神通力には至って居りませんでした。

つまり《菩薩眼》迄至って居なかったと言う訳です。

要するに、能動力に欠けていたのです。其れでも、並の霊能者よりは高き能力を有していたにも拘らず、地獄に堕ちて居た母者を救ける事は出来ませんでした…只、涙を流し見詰める事しか適いませんでした。

其処で菩薩眼に迄達して居た御釈迦様に泣いて請うたのでした…「我が母を地獄から救い上げて下さい」…と。

御存知の様に、此れが御盆…つまり盂蘭盆会の始まりの故事です。

霊能者の能力に就いて見事に表しています。


菩薩眼を持たない我々凡人には、"あの世"に物を届ける事など適わぬ夢でしか無いのでしょうか…。

師匠に僕は問いてみました…「普通の人が、冥府に履物や眼鏡を届ける事は可能ですか?」と。

師匠は仰有いました…「そりゃあ、出来る。然し、皆祈る事に慣れて無いからなぁ」…と。


《血統の繋がる身内なら出来る》

此れが答えでした。

神主でも行者でも坊主でも無いのです。況してや其処等の霊能者なんかでは無く、唯、血の繋がる者だけが可能だと。

《焼けば良い。そして焼き尽くす迄一心に届けと祈れば良い》と言う訳です。

然し乍ら、付け焼刃の祈りで届く道理は無いと言う訳です。

普段"祈る事"を仕事にしている様な、神主、行者、坊主の祈りでも霊界迄は中々届かないと言います。況してや天界に祈りが届かない限り無意味なのです。何故なら、地上の血縁者の願いが届いて神が其の意を汲み幽界に草履や眼鏡の幽体を届けて下さるからです。

つまり《祈り》は常に霊統を辿って主護霊主護神…霊統主へと繋がって居ると言う訳です。

師は仰せでした…「火を点けた時から、燃えている最中も、そして燃え尽きる其の瞬間迄、唯只管に草履が届け」と祈りに徹する事が出来たなら、草履は裸足の足に履いている事が出来ると言う理屈だが…其の様に、脇目も振らず、燃える草履を見続けるなんて事は普段《祈り》に慣れて居ないと、出来るものでは無いが、其れが出来たら"あの世"に届けられる…そう教えて下されました。


そう言う《祈り》を身に付ける為に大事に成るのが、実は一念無想で只管に進む精神統一法…つまり『座禅』に成ると言う訳です。