『幽界』とは勿論『霊界』の一部である訳ですが、其の『幽界』の一部に実は我々の『地上世界』が含まれて居ると言う事なのですね。

つまり『霊界』に含まれても居ると言う訳です。

どう言う事かと言うと、我々の認識では物質世界である、此の三次元世界の隣して四次元世界である幽界が、そして五次元世界である霊界が其の隣して存在していると言う具合に、縦か横かは別にして、次元と言うのは一つの線上に一部だけが重なり合い乍ら連なって存在していると、つまり並行世界であると考えて仕舞いがちです。実は、そうでは無くて、霊界の中に幽界が含まれ、つまり五次元の中に四次元が含まれ、五次元の中の四次元の中に三次元が更に含まれて居ると言うのが、言わば神と言う七次元に住む者から観た宇宙の構造と解されます。

丁度、我々三次元の人間から観た二次元の絵画の世界の人間を観る様なものかも知れませんね。我々の世界に含まれる二次元世界なのに、二次元世界の人間からは我々を感知し得ない様なものです。


さて、御承知の様に、形有るものは全て幽体を持っています。当然、地球にも幽体が有れば、太陽、土星、金星等も当然幽体が有りますから、例えば金星の幽体には日本神霊団の大本営的な拠点が有りますし、土星には至聖先天老祖の拠点が有ります。太陽は勿論太陽神界の大本営が有り、天照大神がお住まいです。

幽界の明りは太陽の幽体の光が差している訳です。

幽界の事を、師匠は上手に説明しておられますが、駅のホームに喩えられます。

一番ホームから七番ホーム迄有る様なものだ…と言う訳です。

正に言い得て妙でして、幽界其れ自体は…何と言うか、本来は未だ死後の世界の入口に過ぎ無い訳です。

ホームと言っても、何も一番ホームから各ホームへといちいち歩いて行く訳では無いけれど…。


幽界と言うのは、何度も述べた様に、暗黒·薄明·地上·夢幻·執着·超執着·大成境と七つの境界が在る訳ですが、我々の三次元世界が直に重なるのは正に幽体の地上界である地上境な訳です。

薄明境と暗黒境は地上より下つまり地下に在るので、流石の幽体の太陽光も地面の下迄はちょっと届かないので、徐々に薄明から暗黒と成って仕舞うのです。

幽界には元々名前は無いのですが、神々の世界で便宜上仮名に於いてこう名付けていたと言う事だそうです。


"この世"に動物として生まれ変わって来るのは、此の薄明と暗黒と言う地上より下の幽界へ行く事に成ります。つまり地面の中ですね。

動物霊に成らなくても、其の侭地獄へと直行する事に成る様です。動物と言っても鳥に成る事は無いそうです。

牛や馬、豚、其れに犬や猫に生まれ変わるのが多いと言う事です。

だから牛や豚は共喰いに成ると言うので宗教家は食べない様にしているのです。鳥は共喰いでは無いので食べれる訳ですね。

幽界での姿を見れば何に生まれるかは一目瞭然です…顔だけは人間で姿形は既に動物ですから…此れを《傍生(ぼうしょう)》と言います。

人間は立っていますが、犬や猫は皆横に成っているから、畜生の事を《傍生》とも言う訳です。


さて、地上と言うものも明らかに幽界なので、至る処に沢山の幽霊がウロウロしていても当然と言えます。元々"この世"が幽界の中に在ったのですからね。極端に言えば、居候していたのは人間界の方だったんですから。

只、肉体と言う物質界の衣を纏って肉眼と言う眼鏡を付けている為、我々の肉眼に幽体が映らないだけで実は直ぐ側に居るのです。


哀れにも交通事故で死んだとか、又、戦死等と言う思わぬ不慮の災害に於いて死んだ幽界の存在は、其処の"地面の幽体"に縛られる事に成るのです。

此れを《地縛霊》と言う訳です。そして次々と事故を引き起こしたりする訳です。

まぁ、元々地上が幽界の一部であると言う立場でものを観ると言う眼を持つ事が、人生の考え方には大きく関わって来る事は間違い無いと思えます。


幽界と地上とが思いの外近いからと言っても、案外と自分の家族の処迄出て来てウロチョロ見て居られると言う訳には行かない様です。

実は、幽世之大神様の御許しを得ない事には家族の処へとは帰れない…そう言う仕組みに霊界では成っていると伺っております。

其れでも、恨み骨髄に徹した等と言う、此の様な執念、怨念の権化に成っているのは、垣間見る様な形で、我が家族の消息を見究める事も有り得る様です。


軈て、此の地上も幽界なので、多くの死んだ者達が、暗黒、薄明、地上、夢幻と言う同じ幽界の中に於いても、分かれて行く事に成る訳です。

地上境に行った者が、或る意味最も死を自覚し得ないと言う事に成るかも知れませんね。地上世界と何等変わらぬ世界なのですから。

実は、夢幻境と言う處では、自分の主護霊と会えるのですが、主護霊とは気付かない様ですが…。

何故なら、主護霊と言うのは光輝いた姿で見えるからです。地上世界の霊能者は殆ど霊界では無く、幽界を見て居る訳ですが、自分の主護霊の光輝く姿を垣間見て、神様を見た気に成っていたり、自分には高い神界の神様が付いてくれて居ると増長慢と化す者が多いので、主護霊はなるべく姿を示さない事も有り得る訳です。

霊能者を自覚している人は、ただでさえ霊能を特別な力を与えられたと勘違いして《我》が強く成りがちですので、光輝いた姿を見たら益々手が付けられなく成ると言う事を主護霊は御存知ですから…。


幽界での主護霊の姿には、実は末魂の"この世"での一生の出来事が映されると言うのです。

つまり、主護霊と言う鏡に全て自ら行って来た良かった事、悪かった事…まぁ、自分が遣って仕舞った人に言えない事を始めとした全ての事を見せられる訳です。

閻魔様の前で見せられる瑠璃鏡は自分の犯した全ての悪い事だけで無く、前世、前前世…と言う罪迄を曝されるので、大分意味は違います。

兎に角、幽界では主護霊は光輝いた姿に全てを映す鏡として遭う訳だから、実は主護霊に遭って居ても本人には主護霊とは思い至らないみたいです。


然し、こう言う体験をしても、人間としての執着は一向に無くなりませんから…幽界には一応の食べ物も有るし、山も川も有れば、昼も夜も有りますので、中々死んで仕舞って居るとは気付かない訳です。

なんか妙な蛇の中を渡ったとかの記憶が有っても、其処が三途の川だと言う事を知識として持ち合わせていませんから…此のブログを読んだ方は知識として持っていますが、そんな事は生前に誰も教えてくれませんから…冥府の閻魔様も然りだし、八衢迄歩いた記憶も然りで、知識が無ければ記憶は唯の長い悪夢に化して行くのも理解出来ます。


此の辺から逆に死んだ自覚は益々失せて仕舞い、未だ自分は"この世"に生きている様な錯覚を強く持ち出して仕舞うので、此れを執着境と言う訳です。

そして、自分の死んだ事を知らずに…周りの環境が微妙に変化して居る事は何となく分かりますから、何処へ自分は迷い込んだのか…と。

何と言っても、常に居た筈の家族の姿が見えない訳ですから、何処へ迷い込んだのか、旅行にでも来て居たのだったか…と言う様な暗示の中で執着境と言う境涯を通ると言います。

然し軈て「矢張り死んだのかなぁ」と言う自覚が湧いて来る事に成ります。


ところで、他の動物…四つ足に生まれ変わる人間は暗黒薄明と言う境涯から出る事の無い侭四十九日から五十日程度経てば、又、下界つまり地上の世界へ放り出され、本人の無意識…つまり主権の無い世界ですから、他の動物の腹の中へ否も応も無い侭に放り込まれて仕舞うと言う事に成るのです。


さて、自分はどうやら死後の世界…幽界に来ているんだなあ…と自覚する境涯が即ち超執着境と言う訳です。

要するに地上境とか夢幻境、執着境と言うのはきっちりと区分けされた場所的なものと言うよりも、心境に応じて分かれて行くと言う類の場所と言う事に成ります。

心境に因って立ち位置が変わるホームに佇む様なもの…其れが幽界なのですね。


ところで大成境と言うのは、愈々幽界を脱する境涯の處なのですが、霊界に地獄の学校が在る様に、幽界の一番上にも学校の様な處が在るのです。

御神霊の仰有るには、恰も奈良の芝草山の様な処だそうです。地獄の学校にも似た様な場所が在りました。

兎に角、余り木の生えて無いなだらかな芝生の上で…丁度二月か三月辺りの五時半から六時前位の、綾目ははっきりした程度の明るさの"夕暮れの明るさ"の中で、霊界から来ている先生一人の元へ三十人位の大人の幽界人が円陣を組んで芝生に座って、霊界へ行く為の注意を受けたり、物語を聞くと言う事に成って居る様です。

霊界に於ける教育と言うのは、全て、先生の講義と言うものが無く、生徒が疑問と思う事を自ら見付けては質問をすると言う遣り方なのです…と言う事は疑問も抱かない様では生徒たり得ないと言う事で、学校に入る資格も無いと言う訳です。ともあれ、自主性こそが霊界では常に大切だと言う訳です。

質問を受けた先生は、答えを自らの力で導き出させる為に、誘導尋問的に逆に質問に質問で応えると言う事をする様です。

例えば、「其れなら、こう言う場面はどう考えますか?」「こんな風に思います」「では、こう成ったら、貴方はどう考えますか?」と徐々に深く考えさせて行く訳です。

こう言う具合で回答させて行くのです。

こうして大体三十人の生徒が車座に成り一人の先生が応じるグループが芝生の其処彼処に展開して居ると言うのが、所謂霊界の学校に於ける景色である訳です。


本来は幽界と言う処は四十九日前後で脱出出来た様なのですが、少し幽界の事情…其の消息と言うものが理解出来て来ると、此処が未だ本当の意味では霊界では無い事が解って観ると、地獄は霊界に在る事も解って来ますから、軈て霊界に行ったら自分がどうも地獄へ行きそうだと言う事も分かりますから…。

そう成ると、そんな地獄が待っているだけの霊界には行きたく無いのが人情と言うものです。

幽界に少しでも長く獅噛み付いて居たいと言う…其の執着境並びに超執着境辺りに於ける霊人が陥る特徴と言う事に成って来るみたいです。

"死んだ"と言う自覚を一応持つ訳なので、一種の超執着では有るのですが、"自分の行き先"が怖いので、一人では嫌だと言う訳で、此処で奥さんが来る迄待っていたい…奥さんこそいい迷惑ですが…そう言う輩も出て来るのは本当の事です。

そして三百〜三百五十年位幽界に居続ける霊人も居ると言います。

幾ら待っても一緒に行ける筈は無いんですが…。

御神霊の仰有るには、三百五十年以上幽界に留まって居る者はちょっと見当たらないと言う事なので、結局、最後は観念して地獄へと皆旅立つと言う事なのですね。


幽界には一応の食物は皆存在しているし、結構"この世"と同じ様な商売も致して居ると言います。但し、余り下劣な商売と言うものは幽界には無い様ですよ。

其れらとも、軈ては否応無しに別れ、霊界へと進む事に万人が成るのです。

つまり、幽体を脱いで愈々霊体に成ると言う訳です。

此の霊体と言うのは、其の人間の人格が其の大きさを決めるので、ひょっとしたら二、三センチ位の大きさに成る者も居れば、奈良の大仏並の巨人に成る者も居ると言う事に成る訳です。

此処から先は霊界の話しに成ります…。