天地の創り主、即ち《この世》を創った天地の創り主が若しも存在すると成れば、ユダヤ教、キリスト教やマホメット教の創り主が我々を碁とか将棋を指す様に動かしている事に成りますが、日本神霊の見詰める宇宙の実相は全く違って居ました。
先ず、幾ら探して観ても《創造主》と思(おぼ)しき個性有る存在は無かったと言う訳です。

此の宇宙を創ったと言う限り、宇宙の内側に居る存在と言う訳には参りませんから、創造主は必然的に此の大宇宙の外に居なければ宇宙なんか創れないと言う事に成りますが、そんなものは存在の有無すら知りようが無いのです。


強いて言えば、宇宙と成った『命』が、と言うものを無理矢理、創造主と言えない訳でも無いですが、…《理体としての命》を個性有る存在と言う訳には行かないと言う事に成りますので、結局、創造主は居ないと言う事に成ります。


理体であった《命》が軈て躍動する事から、つまり伸び縮みし始めて其の躍動の中にエネルギーが生じ、軈て霊性を帯びて、更に深く浅く広く奥行きを得て、其れ等の因縁が次々と個性化して更に広がって行った…と観ている訳です。

だから、日本神霊即ち東洋の教えは、《この世は因縁に於いて動いている》と《宇宙の法則は即ち因縁の法則である》と成る訳です。


何度か述べた通り、『因縁』とは《因とは直接原因》であり、《縁とは間接原因》と言う意味ですので、つまり種子と畑に因って"もの"を生じると…言ってみれば、《蒔かぬ種子は生えない》と言う事です。

其れ丈に因縁を潜ってものが動く事には、やはり時間を要する事に成らざるを得ない訳です。

だから《神も時節には敵わぬ》と成る訳です。

《因縁》と言う限りは、時間的にものが流れる事に成るのです。


空間的にものを拡大し、其の空間上に於ける組み合わせを捉えるのを『実相論』と言います。

時間的に因縁に拠ってものを捉える事を『縁起論』と言う訳です。

本来は時間と空間は別物では無いのですが、此れを別物と考える所に実は《迷い》の第一歩が生じて来る…と、御神霊は仰有って居られる訳です。

"因縁に因って動く"と言う事は、蒔かぬ種子は生えぬと言う事で、"蒔かぬ種子は生えぬ"と言う事は、《今生に於ける出来事は全て前世の成せる業の結果》と言う事に成るのですね。


然し乍ら、一人の人間の結果に於いて、ものが動く筋合いのものでは無くて、つまり我々一人一人が主護霊と共に背後には七柱の背後霊が最低でも付いている訳ですから、其のチームプレーに於いて私達は動かされている訳だから、主護霊の因縁が即私達に現れて来ると言うものでは無いのですね。少なくとも八柱の霊達のミックスされた因縁が出て来る訳です。


つまり、一人が蒔いた因縁が一人に生えるのなら、足し算、引き算でものは単純に割り切れるけれども、複合したものが生えて来ると、掛け算、割り算に成って来る事に成り、時には乗数に成り、ルートに成る事も出て来る訳だから、一概に主護霊の因縁通りには我々は地上世界を生きて居ない訳です。

厳密に言えば、主護霊因縁·背後霊因縁·祖霊因縁·末魂の個人的因縁とが四分の一づつ末魂の人生を操っていると伺っております。

つまり、強いて言えば、良い事も悪い事の結果の四分の一は"あなた"の自由意志の顕れだと言う事に成りますね。

此の様に、或る意味では膨大な霊的団体の判断、意志と言うものが"あなた"一人には降って来る事に成る訳です。実は趣味·嗜好·人生の目的、又は男女の好きだ嫌いだと言う事も、須(すべか)らく"あなた"一人に起因しては居ないと言う訳です。


「あいつは無死が好かない」とか「初めて会ったの゙に、何故か旧知の仲の様にしっくり来るんだよ」等と言う事が有ると思いますが、明らかに主護霊や背後霊の因縁に因る感情なのです。

"結婚する"と言う事は、本来、"結魂する"と言う事なのですね。つまり、互いの主護霊同士を結ぶ付ける事を以って"正式な結魂式"が成就したとするものなのです。

霊的には、市役所に婚姻届を出しても、正式には結婚した事には成らん訳ですね。"この世"だけの単なる儀礼的なものに過ぎない訳です。

主護霊同士は結ばれて居ないから、簡単に縁が無くなれば別れて仕舞う事に成るのです。

昔の神主は霊が視える者が多かっただけで無く、主護霊の高み迄を視られる、霊格の高い神主が普通に居たから、結魂式が可能だったのでしょうが、現在(いま)は、霊界の下層ばかりで、主護霊の住む上層界迄視える霊格の持ち主が、果たして神主に幾人居られるものか…。主護霊が見えなければ、儀式を行っても、感応するか否かも判りませんから。

本当の《結魂式と言うのは、主護霊同士が結ばれる事を天照大神様に報告する為の儀式》なのです。


私達人間はたった独りぼっちな人は、故に居ないのです。周りに人っ子一人居ない場所に一人で立って居ても、実は驚く程大勢と居るのです。大勢の目に一挙手一投足が見詰められ、此の者に相応しい行為か、遣って良いか、悪いかを終始チェックされているとも言える訳です。

「誰も観ていないから、適当に誤魔化そう」…と、全部観ているのです。

そして、悪しき行為ばかりに走って居ると、見切りを付けた霊から順繰りと離れて行き、悪を喜ぶ霊が居場所を取って変わると言う事が起きるのです。そして、気が付かない内に、其の者の性格から生活から全てが変わって行く訳です。


兎に角、其れでも因縁には勝てないのです。時を待たねば成りません。

何故ならば、因縁は蒔いてから生える迄待たねば成りませんから…。

こうして、『縁起論』に立って観ると、因縁は前世に蒔いたものが今生に顕れて…と成って来る訳ですから、理屈から言ったら、来世に幸せを得ようとするなら、今生に"良き種子蒔きをして置く"事が来世の幸せを保障する事に成る計算に成る訳です。


ともあれ、此の様にして人は生まれ変わり死に変わりをし乍ら、凡そ霊界二万八千年の歳月の間に三百回から三百五十回、"この世"に生まれ変わって来て、其の魂遍歴の全ての経験を完成させる…と言う訳です。

"この世"にも、人は自分の欲望を満たそうとして、やっぱり来ている訳です。

ところが、"この世"に於ける肉体的人間の一生は実に短くて、自分の欲望と雖も、あれもこれも出来ません。

其処で今生は此の欲望を充たし、次の来世では此の欲望を充たす…と言う具合にして己れの欲望を次々と充たして行こうとする訳です。


実は、成佛するとか悟りを開くと言う事、つまり"佛に成る"と言う事は、"人間の持てる欲求の完全円満成就"を意味しているのです。

大金持ちに成って、金殿玉楼に住みたいと思う時も有る訳ですが、そんな事は一度味わい住んでみたら案外大した幸福では無い…と、思い知るかも知れません。

そう成ると、其の人の欲望は変わって行く事に成る。人の幸福な生活と言うものは、案外座って三尺寝て六尺と言う中に有る…と思う人も出て来るかも知れない。

まぁ、他人様から後ろ指を指されない程度の家に住み、何とか人並みの豊かな生活が出来たら、最早其れ以上何を望むか…てな具合に、次々と人の欲望も変わって来る事に成るのです。


次第に欲望は高度化するのです。

やはり、精神的に充たされる高度化への欲望と言うものに徐々に変化して行くものなのです。

では、最後の高度化された欲望とは何でしょうか?

其れは《時間的無限》·《空間的無限》と言う、時間·空間の無限大を欲求する所迄、人間の欲望は行き着くと御神霊は仰有いました。


好く言うでは有りませんか…「死んでも命の有ります様に…」と、此れはつまり、永遠の生命を願う事に成ります。

唯生きて居れば良いと言う訳じゃあ無いのです。今より善く生きたいのですね。

宇宙の隅から隅迄所狭しと横行し、宇宙の全てが我が心に映ると言う所迄至って初めて人の欲望は充たされるのです。

此の時間的無限と空間的無限…即ち、『宇宙即我也』として《宇宙の全てが我が心に映る》と言う、此処に至って初めて欲望の完全円満成就に成る訳です。


実は、宗教と言うのは、此の生命欲求の完全円満成就を求め続けているものなのです。

宗教の求めるものは《宇宙か我か、我か宇宙か》と言う体感なのです。実感なのですね。

そして、其の欲求の成就した人格を神と言い、佛と言うのです。

宇宙の全てが己れに映って行くプロセスを歩んで居る世界が霊界と言う訳です。

そして、《我が宇宙か、宇宙が我か》と言う実感、体感を会得した者が行き着く先が神仙界と言う訳です。


然し、神仙界の住人に成れたからと言って、《我が宇宙か、宇宙が我か》を会得し得たとしても、やっぱり己れに個性が有る有る事には変わりが無いのです。

魂にも得手不得手が有ると言う事ですね。

つまり、其れが魂としての任務と言う事なのです。

全て映っても、同時に己れの果たすべき任務と言うものは別個と成る訳です。

だから、神仙界へ上っても、「私が生まれて来た即ち己れの天命は之如何」と言う事に成る…と御神霊は申されて居られます。

つまり、神仙界にも夫々個性有る人格が有り、使命が有り、反省が有ると言う事です。

唯、宇宙の全てが己れに映って来る事は事実であると言うだけなのですね。

悟れる者にも、個人の魂には役割が厳然として有る上に、悟れる者と雖も、其の人にも生まれ変わり死に変わりして来た霊統が有り、霊統の彼方には紛れも無く霊統主が神界に御在します。

つまり、個人としての役割と共に霊統上の役割、役目が有ると言う事です…。


生きると言う事は、正に真に壮大な御魂の持てる因縁に出逢う旅でもある訳なのです…。