『縁』と言う言葉は日常用語と言うよりは霊学用語であるかと思える程、霊学的意味合いが多分に含まれていると思えます。
つまり霊界構造と言うものが理解出来ると、含まれる意味の奥行が明確に成るからです。
『袖触れ合うも他生の縁』の《他生の縁》とは《前世の縁》の事を本当は意味している訳で、つまり"今生で偶然に擦れ違い触れ合った事と成った原因も、実は前世に知り合っていた事に有る"と言う訳ですから、霊界構造や霊の実態が理解されてこそ出て来る言葉に成ります。
昔の日本人は、我々が想像するより遥かに霊界と言うものを理解していたのかも知れませんね。
寧ろ、現代に成るに連れ、言わば科学が発達するに従い、精神的柔軟性が薄れ、心の奥深さと言うものが失せ、表面的に成り、薄っぺらな幼稚さだけに右往左往する様な…言わば、人間としては精神的な未熟者と成って仕舞ったかの様です。
『袖触れ合うも他生の縁』とは必ずしも"袖触れ合う"必要は無くて、"眼と眼が合う"だけでも"他生の縁"が動く時が有る様です。こんな事が有りました…或る人が初めて海外に旅したのですが、彼の地で偶々擦れ違った人と目が合ったらしいのですが、何故か以来ちょっと擦れ違った一期一会の其の事が忘れられず、不思議な事よ…と思って居たと言います。
其処で御神霊にお尋ねした所、其の御仁は其方(そなた)が前世で縁(ゆかり)有った人の生まれ変わりであり、其方が彼の地を訪れる事に成ったのは二人の主護霊同士が逢う為に仕組んだ事で有ったと言う訳です。
そして、たった一瞬の擦れ違うチャンスが巡り来るのに主護霊は長い年月を掛けて、機が熟す迄、実は互いに待っていたのだ…と教えられました。
実に霊界と言う處は不思議な世界でして、現界に住む我々がどうしても理性で理解し難いのは、"霊界の時間の流れ"と言う事なのです。
例えば、我等が神の世界の神祭に参画した場合に好く味わう事なのですが、こちらの神祭は精々一時間弱なのに、同時に行われている神仙界の神祭は遥かに長い時の流れの中に在るのです。其れなのに、同時に始まり同時に終わるのです。
解りますか…。神仙界の神祭と、現界の神祭に我々も共に参画させて戴いて居る…と言う事は、肉体の神祭と霊体の神祭が夫々異なる時間軸の元に歩んで居ると言う事なのです。視える方達は現界の景色と重なる様に神仙界の景色の中に居乍ら、違う時間の流れを同じ時間の流れとして認識している訳です。理性では頭が混乱するでしょうが、体験的には何等矛盾無く味わえるのです。
其れと同じ様に、一瞬の邂逅でも、主護霊達に執っては、何時間かの再会の時を過ごしていたと言う事に成るのです。
此処で疑問に思われる方が居ると思います。
"同じ霊界に居て、然も互いに連絡し合っていたのなら、さっさと末魂が彼の地に赴く時を何年も待たずに、霊なんだから、簡単に会いに行けば済む事なんじゃ無いかい"と、疑問が湧く所ですよね…。
実は、言うなれば電話で話を交わすのと、直に会って話親しく交わす違いと似ているのですね。
何処に居たとしても、縁が有る者同士なら電話で話を交わす様な事は可能だそうですが、肌と肌を接する様に親しく触れ合い乍ら会って話を交わす様にする為には、末魂同士が実際に出逢い袖でも触れ合うか、視線を合わすと言う事抜きには適わないのだそうなのです。
末魂同士が現界で出逢う為には、其れ相応の時間が必要と成るのはお判りかと思います。
「神と雖も、時間には勝てない」と言うのも、「因縁を整えるには時を要する」とか、「時の熟す迄待つ事も重要だ」等と言うのは其の事を言うのです。
又、『縁は異なもの味なもの』と言うと、男女間の関係を言っているかの様ですが、実は、家族間の事も、上司と部下の事や、主人とペットの関係等々、自分を取り巻く人やペットに関わる霊学的関係性を暗示している言葉だったのですね。
ペットと言うのも元々人間だったものが大多数ですから…。
尤も、男女関係の大半は前世因縁に起因すると言われています。
但し、前世の恋愛対象だけが前世因縁と言う訳では無いですから、問題なんですね。
前世で親子だった者が今生出会って恋愛関係に成る事も有れば、前世で仇だったりする場合も有るのです。酷い目に合わした事を恨んで、今生は最後に殺して遣る目的で出会うと言う事だって有る訳です。家族にも、父親を手助けしたくて、子供として生まれる人も居ます。前世で源氏だった人の兄弟が平家の生まれ変わりだったりすると、何故か反発し合う兄弟に成ったりするのですね。
其れ等全てを包含する言葉が『縁は異なもの味なもの』と言う訳です。
霊界との真に現界の人間に執っては不可思議極まる世界である事は…霊界を知れば知る程、寧ろ深く奥行が広がるばかりなのです。