"あの世"とは徹頭徹尾、あなたの"思い"だけが現実として活動し続ける世界である…と言います。
地獄に堕ちるのは、"この世"で積上げ続けて来たあなたの思いが決定付けると言います。

そして、地獄に居続けるとは"あの世"で新たに積上げた《思い》が其れ迄積上げて来た《思い》に更に加えた《思い》が加算されるのです、同様に地獄から脱げ出すのも"あの世"で日々思い描く"思い"如何に拠るのです。

《思いのエネルギー》と言うのは、皆さんが想像する以上に強いものなのです。

日々の暮らしの中で、何気無く思い描く事でも、其れが心を込めた場合は其のエネルギーは簡単に消えたりし無いものなのです。面白い事に、五体満足で無く成った人が亡くなった場合、"あの世"の冥府に辿り着いて眠りに入った段階から、五体満足に戻るのです。

ところが、事故で足や腕を失って居ると、本人が足や手が事故でもう無くなっていると、思い込んで居るものですから、五体満足で目覚めても、本人の思いの中では、腕や足が欠けた儘なのです。

其れで、冥府ではどう言う加減か五体満足な人がまるで足が存在し無い様に、片足立ちでピョンピョンとして居たり、必死で這いずって居たりしている現場を好く見掛けると伺っております。

本人にだけは、足が見えていないのですね。


僕がイベントなんかで、似顔絵を描いて居ると、好く女性達が、冗談で微かに笑みを浮かべつつ、「私はブスだから、描いて貰いたいけど、似顔絵に成らないでしょ」等と言って来る方が案外多いのです。ブスの人なんて居ないのですがね…。どう言う心境か、そう言う方は多いのです。

僕は哀れに思います。

何故なら、"私はブスだから"と、何かの弾みで口にすると言う事が、身体に影響して行く事を僕は知っているからです…。

其の"私はブスだから"と巫山戯(ふざけ)て思って言ったとしても、其の思いと言霊が軈て、其の方を"ブスへと変貌させて行く"と言う事実を考え様ともし無い訳です…哀れに成ります。

其の"ブス"と言うのは、《其の方が思う様なブスに成る》と言う事ですから、皆が等しい形態を執る訳では無いのです。性格がブスに成る人も居るでしょう、歳と共に見た目が、其の方がブスと嫌う顔付きに変貌する場合も有るでしょうね。

冗談でも「私ってブスだから」等と、自分を否定する様な事は思わない方が良いのです。


若し"この世"だけで"あの世"と言うものが無いの成らば、《心も心が齎す思いのエネルギー》と言うものも死と同時に切れて仕舞い、此れ迄同様、"この世"は真に気楽に行けると言う事に成ります。

面白可笑しく、ちょいと世の中を誤魔化して、まぁ、体を壊さない程度に酒でも呑んで、時には旦那や奥方を誤魔化して遊ぶのも一興と言う事に成るのですが…。

でも、死んだ後の世界が厳然として在る事が歴然と分かって来ると、ちょいと此の世の中は窮屈に成りますね。

"この世"で思い煩うた儘の世界が目の前に廣がって居ると成れば、尚更です。

やっぱり、死んで後に"この世"で遣った事の《付け》が回って来る…等と考えると、余りおちおちと美味い料理と酒ばかりに現(うつつ)を抜かして居ると言う訳には行かなく成りませんか。

損だ得だと言う思いにばかり時を費やす訳にも行かなく成ります。


つまり、"あの世"が有るか無いかと言う事は、"私"の人生に執って、大変に大きな課題に成ると共に、人間に執っての最大の課題…其れは《死の恐怖》なのです。

若い間は"死ぬ"なんて事は、遠い事の様に感じられるものですが、人類に執って《死の恐怖》と言うものは、永遠の謎でも有ると言って過言では無い訳です。

でも…ですよ、"死後の世界が明確に在る"と言う事が分かれば、実はそんな《死の恐怖》と言うものは素っ飛んで仕舞う事に成るのでは無いでしょうか…。


其の死後の世界では人の思い、心と言うものが実際どの様に動いて行くものなのか…其れを、所謂霊界の上層界から降られた、御神霊が次の如くに語られて居られます…

「あの糞坊主共が申す様に、「南無阿弥陀佛」と唱えたら極楽へ往生させて遣る等と…当に金殿玉楼か蓮の花の台(うてな)の上かは知らんけれど、七宝金銀鏤(ちりば)めた様な處が待っていてくれると成れば言う事は無いが、若しも反対に閻魔様の御座る地獄と言うものが存在すると成りゃあ、つまり、死んで後の世界が有ると、妙な心配をせにゃあ成らんと言う事に成る。


でも、儂の世界…死後の世界は何度か説いた様に歴と存在する。

坊主の言う様な"血の池地獄"だとか"針の山"等と言う地獄は無いが、真っ暗な中に一人忽然として置かれたり、お互い虐(いじ)め合ったりする様な…何と言うか、真に臭気プンプン、真艫(まとも)な者の耐えられん様な臭さの中に置かれた等と言う意味に於いて、明らかに地獄と言うものは存在する。

一つ間違えば其の地獄に四千年の長い間を其処で送らなけりゃ成らん…儂等から申すと不幸な者も有る。


又、同時に霊界には七つの層が在るのじゃに因って、次第次第に光り輝いた光明化された中に…つまり、我等の世界は本人の目覚めただけ…本人の自覚しただけ、本人の心が大きく成っただけ、其の者の環境も広く大きく成って行くと言う事じゃ。

観られる環境は、観る世界の奥行きに因って、観る世界の深さに因って観られる世界が変わって来るのは此の世も同じじゃろう。


顕微鏡と言う眼を持ちゃあ微生物を観る事は出来ようし、又、望遠鏡と言う眼を持つ成れば北斗七星、北極星等と言う天界宇宙狭しと、其れを観る事が出来る。

見るべき者の眼(まなこ)の奥行、深さ、大きさに因って、見られる宇宙が広くも成り、狭くも成る。

問題は此の辺なのじゃが…。


こう言う様な形に於いて、見られる世界の環境は、見る者の心境の大きさ深さ如何に因って変わって来る。

其の者の魂が、心を開いただけ、全てに対する愛情を持って心を開いただけ、観られる環境も広く拡がって来る。

つまり、此れが霊界を次第次第に高く昇って来るとも言える。


そうして、多くの人達が「あの人の御蔭で…」「あの方の御蔭で…」と皆が慕い寄って来る中に一つの浄土が生まれて来る。

志を同じゅうし、気持ちを同じゅうする者の集団が生まれて来る。

又、其の者の心が開いただけ、其の者が光り輝いて来て、最後には阿彌陀様や佛様達が、あの《光背》と言うて、後ろに後光を持っている様に、軈て光り輝いた存在に成って、初めて神仙界へ行く事が出来る…とな。


光り輝く姿に成る…此れを神仙界の住人と言う事に成って来る。

此れを称して『極楽世界』と言うのは勝手じゃけれど、こう言う様な形で、高き霊界は集団世界であると共に、其の者の心の開いただけの所謂環境を形作って行く…と言う事に成って来るのじゃ」…と。


《心の世界》即ち《思いの世界》が霊界である限り、《迷った思い》の儘に"この世"を送り、"あの世"迄其の迷い惑うた儘の心を持ち込むと言う事は霊界での生活の為には百害有って一利無しと言う事は理解出来ると思います…まぁ、地獄から私は少しずつ一歩一歩と最低二万八千年要してでも、ゆっくりと昇って行くので、気に為さらずに…と言う風流な御仁も居られるでしょうが…。

霊界の実相を知る者としては、少しでも現実問題として霊界を扱って頂ければ…と思った次第です。


最近、日本人の間にも、タトゥーを入れる方が多く成っている事も、実は気に病んでいる所なのですね…霊学的には、麻薬同様タトゥーも罪の一つなのです。其れで日本人はそう言う類いの物を排除して来た訳です。

ちょっと待て…古来、日本人も神と接する為に、麻薬を使った筈と思った人が居るかも知れませんね。

其の通りです。

一種の幻覚作用を利用して、つまり薬を使って神と出会ったとする宗教家は沢山居たらしいですが、悉くが地獄に堕ちて居ます。幻覚で出会うのは、自分の空想上の神もどきでしか有りません。どれ程真面目に修行し続けたとしても、たった一度薬に頼っただけで全て水泡に帰して、地獄が死後に待つだけと成ります…。


我々も真面目に真摯に霊界構造…霊学を知る必要が有ると思います…。

其れが生きる糧と成ると確信するのですが…。