"この世"は見える世界と見えざる世界との合作に於いて展開していると言う。

其れは霊界の存在と現界の我々人間との合作に於いて動いていると言う事です。其れが真実であると思えるならば、上手に霊界の存在と付き合って行く事が、"この世"の人生を巧く乗り切って行く事に成ると確信するものです。若し、其れが誤りで有っても、つまり、"あの世"なんてものは無くて、世間の大多数の人達が考える様に、死と同時に何もかもが消えて無く成るとしても、夢も希望も無い薄っぺらな人生だけが現実としても、死後に更に遥かな人生が待っているとして生き抜く方が余程楽しいじゃ無いですか?


其処で、"霊界の存在"とは上手に付き合って行く方が宜しい様に思える訳です。

《霊界の存在》と言うのには、悪の権化の如き悍(おぞ)ましき低き世界の輩も居れば、神と言われる高き界層に住まいする光そのものの如き方々も居られる訳です。

其のどちらの世界共に、巧みに旨く付き合って行かねば成らない訳です。

低き世界とは、出来る限り触れ合う因縁を作らない事が、即ち"上手に付き合う"事に成るし、高い神々と付き合う為には、自分の心の置所を常に神々の方向へと向けて行く事に外成りません。其れが神々と上手に付き合って行く道の第一歩に成ります。


そして、大事な事は"自分は神の申し子である"と言う事を、現実の今が如何なる事態に在っても、微塵も疑わないと言う事に成ります。

何故なら其れが、己れが蒔いた因縁が招いた結果で有っても、背後には神の意図したものが介在しているに決まっているのですから…。

見える世界と見えざる世界の合作とはそう言う事なのです。


現界とは修行の世界であると好く言われます。其れは"出来る限り因縁の調整を謀る世界である"と言う事でも有るのです。

次元を異にした全ての世界に共通する法則は『因縁の法則』であると全ての御神霊が常に仰せに成られています。

其れが『宇宙の法則』なのだ…と。

『因縁の法則』が此の世を支配する限り、法則に合致し無い思想も、生き方も、会社と言わず、国と言わず、個々人に至る迄が、繁栄する道理が無いです。幸せに成れる道理が無いのですね。

では、"この世"に結果として生じた事の原因は全て"この世"に有るか…と言うと、そうでは無い訳ですね、第一、"私"と言うものが今現界に生きている、其の因縁の発端は明らかに《前世》に迄遡らねば決して判らない訳です。

そうすると、今置かれている境遇と言うものの原因すら、前世で抱いた発想に迄、此れ又遡って観なくては成らない事に成るかも知れません。


同じ様に、今度は今抱いている願い、夢、遥かな望みが、結果として芽生えるのは、何年掛かるか知れたものでは無い事に成ります。

真艫に行けば、つまり普通に因縁の法則に従えば、此の世に"私"が誕生する迄に最低でも三百年程要している事に成る訳ですから…因みに、僕が現界に生まれ変わるの゙に約六百年要しています。

と…言う事は、"普通に生きる"と言う事ですら、現界だけを計算していて出来る話では無い事に成ります。

必ず、現界は霊界と関わって存在している事に成るのです。同時に霊界は必ず現界と関わらずには存在し得ないと言う事に成るのです。

見える世界は見えざる世界との合作に於いてのみしか動き様が無いと言う訳です。


話は"振り出し"に戻ります。

"この世"は"見える世界"と"見えざる世界"との合作に於いて常に展開しているのです。

だから、常に霊界の存在と言う要因を考慮し乍ら、現界を生き抜く様にする事が、真の成功を齎し、真の幸福に辿り着け、真の繁栄の道を歩んで行けると言う訳です。

そして、霊界の高き存在である神々と上手に付き合って行く為の一番早い近道は何か…と言うと、其れは"自分は神の申し子"即ち"神の分霊"である事を堅く信じるだけでは駄目なのですね。

信じるだけでは、其れは絵に描いた餅に過ぎず、相変わらず空腹の儘です。

行為、行動が伴ってこそ、真の『信』に成るのです。宜しいでしょうか…。

其れが『証』と成るのです。腹が満たされると言う訳です。

"私"も神として考え、行動する事です。

「神なら何としよう」と考えて観る事なのです。

神の立場に立って、ものを説き、神の立場で神らしい行為行動をする事なのです。

そして、大事な事は、神の立場で反省する事です。

出来る出来ないでは無くて、遣って観る事ですね。

そうすると、軈て、知らず知らずの内に神が背後から支えて下さります。

人と神との合作の立場で物事がスムーズに展開して行く様に成ります。


但し、我欲から始まれば、幾ら"此んな時"私が神だったら…なんて道理に適いませんから…念の為。