精神統一には方法論的に幾通りも種類が有る訳ですが、"悟り"を開く上で一番効果の有るのは、やはり、『禅』と言う事に成ると思います。

では、禅の統一の仕方はと言うと、何度も言う通り《一念無想》なのです。

一つの事を思い詰める事に因って全ての雑念を去ると言う訳です。

禅で言う《禅定》と言うべきものです。

だから、禅を組んで居る間は、ちゃんと物は見えるし、ちゃんとものは聞こえて居るのです…唯、一念に統一するだけの事。


さて、禅宗と言われるものには、曹洞禅と臨済禅とが有りますが、私の師は臨済禅で育ちました。臨済禅の内でも、俗に言う所の天皇禅と言われるものでした。

道元の曹洞宗の方は、《数息観》と言って、「ひとーつ、ふたーつ、…」と十迄数えて、又「ひとーつ、…」と言う具合に、其れを繰り返す訳です。

そうして、数を数える事に心を統一し、雑念を去るのです。此れが、曹洞宗に於ける第一歩に成る訳です。

其の数を勘定するの゙に飽きたら、《随息観》と言って、大きく呼吸を吸い、大きく息を吐く、其の吸う息、吐く息に一念無想に成ると言う…道元禅師が(只管(ひたすら)に座れと《只管打坐(しかんだざ)》と言ったのは、此の数息観と随息観を意味している訳です。


一方、臨済禅の方は、《公案禅》と言って、理屈に合わない事を考えさせられるのです。

例えば、"父母未生以前の本来の面目"…お前のお父さん、お母さんの地上に未だ居らなかった以前、お前は何処に居ったか…とか、両手を打って音がするの゙に、片手の声を聞いて来い…と言った様な、理屈ではどうにも成らない事を考えさせる訳です。

此れを《公案禅》と言います。

"この世"だけの理屈では、どうにも成らない訳です。

知性を幾ら以ってしても立ち打ち出来ない所迄、己れの知性と言うものを追い詰める訳です。

何故なら、『禅』とは本来《知性の自殺》を狙っているからなのですね。

《知性》に囚われている限り、《悟る事》は出来ないと言う事です。

宜しいでしょうか。

《"悟り"は知性を超えた處に有る》のです。

故に、正しい禅は《知性の自殺》を狙っているのです。知性に解答を与える事で満足している様では"禅"とは名ばかりであると言う事です。そんな所に《見性》なんかは無いのです。


人間の心は左脳が五%、右脳が九十五%と言われています。

此の九十五%の心が、実は主護霊に通じ、主護神に通じ、神や佛に通じると共に、此の九十五%の心に一度入った事は決して忘れない…と言います。此れは御神霊から直接伺っている事なので、僕は真実であると思っています。

だから、何れにしても、此の九十五%の心が、全て扱える様に成ると、ものの本質も正しく見極める事に成ると言う訳です。

禅とは此の九十五%の心に繋がる道と言う訳です。五%の心だけでは、どうしても目が粗すぎて、見られた内容がどうしても全体を捉えられず、漏れが生じて仕舞うのです。

漏れた情報と言うか…漏れた見るべき眼に因って判断したものが、正しい判断の湧く道理が無いと言う事に成ります。


話は禅の問題から、内在意識とか深層心理等と呼ばれる分野に及んでます。

人間の見たり聞いたりしたものは全て"六識"と言う心に入るのです。

六識の奥には七識と呼ばれる、所謂《我意識》が有り、其の奥に八識と呼ばれる、《共通我》とでも言いますか、我等が生まれ変わり、死に変わりして来た記憶が其の中に刻み込まれている場所が在ると言います。


人の心と言うものは真に奥深いもので、其の奥深い心が神や佛の世界に通じて居ると言う訳です。

つまり、我々全ての人間は、心の奥に神々を宿して居るとも言えるのですね。

其の事を佛教は"人には佛性有り"と言ったのですが…。


神が指示をするにしても、其の九識、八識を通して七識、六識そして五感へと反応させて行く訳ですから、下手すれば途中で歪んで仕舞う事に成る訳ですね。

其処で、此の九十五%の心、即ち七識、八識へ行こうとすれば、人間の五%の心が生み出す下らぬ理屈を捨てなければ、そんな理屈に執着していては埒が明かない…屁理屈を捨てて仕舞わなければ、知性の働きを捨て無ければ、永遠に九十五%の心が動かないと言う訳です。

実は、此の《知性の自殺》とは、此の五%の知性を殺す事に因って九十五%の心…つまり《直感力》を養って行こうとしている訳です。


ものの全体を瞬間的に判断するのは九十五%の心なのです。剣の世界、空手の世界等でも、熟練の彼方に求めるのは《無想剣》なのです。

《無想剣》を求めて武蔵も座禅を組み、汎ゆる宗派の祖と言われた剣の達人達は全て最後は"無想剣"…つまり、"思わずして斬る剣"を求めたのも、"九十五%の心は瞬間に全てを捉える"からなのですね。


五%の心の…五%の知性の自殺の上に立つと言う事で、九十五%の心が躍動して、其の九十五%の心が瞬間的にものの全体を捉える訳です。

つまり、"一念無想に成る"とは"九十五%の心の活躍を齎す"と言う事であるので、"知性の自殺"を《霊性の活現》などとも言うのです。