『神は九善 王は十善』と言う言葉は御存知で有ろうと思います。
"王"とは"おうきみ"即ち"皇(すめらみこと)"の事です。

神が人間である天皇の下位に位置するとは、どう言う事でしょうか。

此の言葉には、神が地上世界つまり人間界をどう言う風に扱っているか…と言う事を示す言葉でも有るのですね。

神が人間界を陰乍ら指導している訳なのですが、三次元物質世界では、神は縁有る人間の力を借りずしてはチリ紙一つも動かせないと言う事は、即ち、地上に於ける出来事と言うのは、やはり"この世"の主体は人間だと言う事なのです。

世の中の動きは大筋に於いては神々の画いた通りに結果として辿り着くのは間違いの無い所では有るけれど、其処に至る過程に於いては人間側の動き如何に因って、行きつ戻りつして、決して一直線に予定された結果に辿り着くものでは無いのだそうです。何度も何度も神々の方で予定を変更させると言う事をし乍ら、当初の結論…神々の願いが成就されて行くと言う訳です。

其の為に、神は「何年何月何日に、こう成る」と言う断定した予言はし無いと言います。

人間の思考·行動に因って、予定の日時なんかは呆気無く変更の憂き目に遇う事を承知して居るからですね。


大局は神々の意図した通りには成るのですが、其れには三次元的に当然乍ら時間が掛かる訳です。人間史から観れば、数世紀も時には数十万年も要して、やっと神々の望む處へと辿り着く事も有ると伺っています。寧ろ、普通の事なのだそうです。

だから、僅か百年程度の肉体寿命しか持たない我々の生きている間には、適わぬ事が多いと言う訳です。

…例えば《今正に神の世と成りたぞよ…嬉し楽しの世が愈々始まったぞ》と言う言葉を耳にしても、何年待っても"神の世"を実感出来ないと言う様な事に成るのです。

尤も、此れには、時間と言うものが神の世界と人間の世界とが同じ長さで無い事も大いに関係している訳ですが…。


兎に角、三次元の事に、神は主体である人間に従う事も有る…と言う訳です。

其れを端的に表す役職名が有ります。

『神主』です。本来は《審神者》が出来る人が神主と言う《神を扱う主(あるじ)》と言う資格者で有った訳です。所謂、神社の神主に当たる訳ですが、神と人間の間に立って《仲取り持ち》を果たす、重要な役目を帯びて居たのが《本来の神主》と言う訳です。

古代では、神社に於いても一般的に執り行われていた、所謂皇室用語で言う『斎場(ゆにわ)』の主祭者に当たるのが神主つまり審神者の最重要の役目だったのですね。

宮中では此の人達、つまり神主をする役職名を《中臣》と言い、最も能力的に優れて居た者を《大中臣》と言ったのです。だから、身分が然程でも無いの゙に関わらず、天皇の間近に付き従う事と成り、神の実在が判らない…見えない世界は無いとする…近代の歴史家が下らぬ誤解をする事に成る訳です。


"警蹕"と言うのを御存知と思いますが、あれってたかが人間の神主如きが、遥かな目上の御方で在る神を「こっちにお出でなさい」と呼びつけているんですよ。非礼に当たるのでは…と思つたものですが

実は、実際は警蹕の前、神様の御名前を唱えた段階で神様は直ぐに御出ましに成られるのだと、後に知りました。

其れでは何の為に警蹕を上げるのかと言うと、実は"神を固定化する為"と言われます。

視えれば意味が判るのですが…神様は最初、我々の前に姿を表された段階では、未だ曖昧な陽炎の様にボンヤリと我々の世界からは見えるのですが、「オ〜オー…」と警蹕が進むと、御姿がくっきりと固定されるのです。だから、決して神様を呼びつけていると言う訳では無いのですね。


ともあれ、其の様な理由から審神者たる神主の総元締でも在られる天皇陛下は『神は九善 王は十善』と言うのは真実なのです。

天皇陛下が神様に資格を与えると言う事は真実(ほんとう)なのです。

神の世界では宮中から戴く爵位はものを言うのです。本来ならば、神社の社格を与えるのも天皇様でした。現在のシステムは知りませんが…。


嘗て此んな事が有りました。

六甲山に天満山三尺坊(さんせきぼう)と言う天狗さんが居られます。此の方の御名前を間違って文字通りに"さんしゃくぼう"とお呼びすると、怒られますから、くれぐれも間違えないでくださいね。"天満山さんせきぼう"様ですので、念の為。

そして、豊川稲荷の裏には半僧坊(はんそうぼう)と言う天狗さんが居られました。今は、鎌倉の建長寺の裏山にお住まいらしいですが…。

半僧坊と言う方は、半分坊主で半分俗人であったので半僧坊と名乗られたそうです。其の方が豊川稲荷の裏手の山に居られた時に、当時の秋葉山三尺坊と喧嘩に成ったのです。

ところが、階級が違う為にどうしても喧嘩に勝てず、打(ぶ)つかる度に豊川稲荷の裏手の木がバッタバッタと圧(へ)し折られて仕舞う事に成るのが癪(しゃく)で癪で堪らなかったらしいのですが、階級が違うので反撃が出来なかったと言う訳です。

余談に成りますが、ユウチューブの動画で拡散して居る中に、何処かの国の山間の木々が誰も居ないの゙に一箇所の木々だけが折れんばかりにワッサワッサと揺れ動いて止まないと言うドローン撮影の動画を観た事が有りましたが、案外あれも彼の国の天狗さん同士の仕業かも知れないですね。


其処で半僧坊は或る夜、山岡鉄舟の夢枕に立ってお願い事をしたのです。

「何卒陛下より我に大権現の資格を賜れます様に…」と願ったと言うのです。

「ハッ」と夢から醒めた山岡鉄舟は、明治天皇に其の話をしました。

明治天皇は剛毅な御方でしたから、依怙贔屓は面白く無いとして「大権現の名を許す」と一言仰有った瞬間から秋葉山の山が荒れに荒れて、木々がバッタバッタと倒れたと言います。


後日、江戸が大火に見舞われました。明治天皇が御心配召され、山岡鉄舟に「もう良いから、帰れ」とお命じに成りました。家に近付くと、辺りはもう火の海と成って居ました。

鉄舟の家の敷地周りにも火の手が迫って来ていましたが、辛うじて未だ無事で、屋根の上では四人程の火消しと思われる者達が必死に、火の粉が屋根の上に降り掛からない様に作業して居ました。

家の中に戻った鉄舟が、「健気にも屋根の上で火消しをしてくれて居る者達が居る。後で酒でも振る舞うて遣れ…」と言うと、驚いて屋根を見に行った家人が「そんな者達は居ません。やっぱり、皆逃げて仕舞って誰も居ないですよ」と…。

豊川稲荷の半僧坊の眷族の天狗達が助けに来てくれたのです。

天狗が山岡鉄舟の敷地だけを守ってくれた…と言う訳です。

本来、秋葉山が火伏せの神様でしたが、今度は"火伏せ"が豊川稲荷の半僧坊に移ったと言う次第です。

『神は九善 王は十善』で、天皇は神社の社格を与える事が出来るのです。

観念上の遊びでは無いのです。実践的に資格が変わるのです…天皇の一言で神の立場は、大きく変わると言う事なのですね。