
国常立之大神と言えば、地球創成に関わる神様で在られます。
今風に言えば、我等の太陽系を造ったと言うか、太陽系其のものの事を国之常立神·豊雲野神と言っても良い訳で、此の二柱の神は古事記の上では《独神(ひとりがみ)》として扱われていますが、『リン』と言う神からの口伝等に拠れば、最初の『夫婦神(めおとしん)』…陰陽の神として扱われています。
国常立之大神は、正義と言う事に厳しい迄一途な神様だった様です。
其の余りの厳しさ故に、怨嗟の声が起こる程であったと言う訳で、"鬼は外、福は内"で言う"鬼"とは国常立之大神を指すと言われる訳であり、国造りも半ばにして放棄せざるを得なかったと言います。其の後を引き継いだのが伊邪那岐伊邪那美之大神々であったと言う顛末は以前のブログ『修理固成(つくりかためなす)』でも述べた訳ですが…。
又、『日月神示』や大本教の教えの中では、国常立之大神様を"艮の金神"、妻神である豊雲野之大神様を"坤(ひつじさる)の金神"と言い、鬼門に封じられている神とされています。
喜界島は、鹿児島を南下する事三百八十三キロ、奄美大島の北東二十五キロの黒潮の中に櫛の様に浮かぶ島で、嘗て大本教の出口王仁三郎聖師が日本の裏鬼門に当たるとする此の喜界島で艮の金神豊熊野之大神を神降ろし成され祈られたと言う神霊学的には由緒有る島なのです。
昭和三年一月十四日、出口聖師は宮原山に登山しました。宮原山は坂嶺小学校の背後の小山で古くから神山と呼ばれて来たのですが、其処にはハマザヨモンギ·シダラ·トベラ等が生い茂り、村人も神罰を畏れて斧を入れた事が無いと言う神域であって、其の中央に巨大な松の樹が有り、枝葉が繁って金字に成っていたので、此れを"金字松"と呼ぶらしい。
出口聖師は「艮の金神の分霊は綾部から坤に当たる神島と日本の坤の位置する此の喜界島に押し込まれていたのである」と語られたと言います。
折しも、昭和三年は聖師の満五十六歳七ヶ月を迎えられた年でも有り、此の年中化神龍師が生誕されると言う因縁深き年でも有ったのです。
五六億七千万年と言うのは弥勒下生の年号と好く言われますが、以前のブログでも触れた通り、重要なのは五六七と言う弥勒を示す数字にヒントが有るのです。
五六歳七ヶ月が答えなのですが…。
ともあれ、大本教の出口ナオは、其の御筆先に於いて日本神霊団がエホバの大神に替わって、世界を治める時代の来る事を梅·竹·松と言う時代の流れを経て訪れる旨を予言していたのです。
其の梅の時代を担当するのが大本教であったと言う訳です。竹の時代を担当したのは中国の至聖先天老祖の下に拡がった紅卍会であったのです。
此れは神霊界の秘密として世に知らされる事は時至る迄は無かった様です。
兎も角、日本の昭和と言う時代は梅から中継ぎである竹を潜り松へと到る流れの中の激動の時代でも在ったと言う訳です。
此の時の事を《立替の大峠》と警鐘を乱打して世に知らせたのが出口王仁三郎聖師と出口ナオであったのです。
霊界とは実に不思議な處です。
神に通じた力の有る神籬が神降ろしをした場合、神々の元に祈り込んだ一念が神々の御姿と共にDVDに記録される様に何時迄も…DVDの様に劣化する事も無く保存されて居るから不思議なのです。
師匠が出口聖師と一会以来、大いに興味を持たれていた事に稲津先生も関心が深かった様で、師が喜界島に神降ろしに赴かれた折は、先生は大いに胸ときめかされたと言います。
出口王仁三郎とは実際に何の様なお声を以て神々に呼び掛けられていたものか…と。
同じ場所で、同じ神々を片や出口聖師が、片や中化神龍師が神々を降ろされる…稲津先生は胸のときめきの高鳴りを押さえる事で必死であったと言います。
此の日、昭和六十年十一月二十七日。
出口王仁三郎聖師因縁の地、喜界島に中化神龍師が訪れたのは、梵珠山の妖怪退治に国常立之大神の御助力を給わる様にとの天界の神仕組み故で有った訳です。師が五十六歳七ヶ月所謂みろく松の世と成って、最初の霊界の整えとしての魔物退治でした。
以下は先生の記録から引用します…"愈々、師の神歌が奏上され出します…喜界島の出口王仁三郎聖師来島記念碑に向かい、神歌は聖師を呼び出す為のものでした…歌に呼応して聖師の後ろ姿が霊視する私の霊眼に見えて来ました…白の着物に袴姿で髪の毛は長く頭上に束ね金網の様な物で包んでおられます…八足案(はっそくあん)が聖師の前に置かれ、神籬の榊を其の上に立て、降神祝詞を上げられる聖師の祈りは喜界島に響いています…「惟神霊幸倍坐世(かむながらたまちはえませ)…惟神霊幸倍坐世」…周囲には大本信者の一行十四~五人が聖師の後に回りを取り囲み祈り続けています。
風止(ふと)観ると一柱の霊体が雲に乗って…丁度《觔斗雲》に乗って出て来る孫悟空を思わせる…出口聖師の元へ右上から左下へと下降した…神では無い。
一見仙界の天仙の様に観える。
後でM教授が「多分其の御方は芙蓉仙人ではないかな…」と言われた。
成る程、芙蓉仙人と言えば、明治三十一年如月の九日、富士浅間神社の祭神木花佐久夜毘賣之大神の神使として霊山高熊山に聖師を導き一週間の神示の修行を命ぜられたと言う…成る程、背後霊として考えれば頷ける…然し、出口聖師の前に未だ神々の姿が映って来ない。
中化神龍師の神歌が終わりに近付く頃…師の直毘に映し出された一体の御神影を観た…国常立尊である。
でも、不思議に光っていない…。
丁度其れは掛け軸に描かれた水墨画の神像に似ている…躍動的で無いし、映像が…何故か非常に薄いのである。
聖師は二拝四拍手の内に深々と頭を下げられた…。
出口聖師の過去の降神の祭りが終わると、今度は中化神龍師の降神の神歌である…日本の裏鬼門の守護神坤の金神は如何に反応されるものか…目前が明るく成った…四次元世界に五次元からの光が差した…天津神々の荘重な御降りである。
何時もの様に…日子穂穂出見尊を中心に光輝く光の渦である。
天津神々の一大曼荼羅である。直ちに日子穂穂出見尊の霊団に感応したのである。
明るく輝く数十柱の御神像が夫々に光輝いている…あっと瞬きをした…一際明るい御神像が霊団の神々に加われている。
光に黄金の色が重なった。
国常立尊·豊雲野尊…喜界島に松の世が開いた…私(稲津)に執って掛け替えの無い体験と成った丁度其の日…喜界島は満月を迎えた美しい夜と成った…」と、国常立之大神、豊雲野之大神との出逢いと出口王仁三郎聖師との過去との邂逅の記録を稲津先生は認めておられます…。
そして、此の因縁を以て梵珠山神業が実は完成したのである。
僅か二日の後…一行は二千六百キロの彼方、雪国の青森にオーバーに身を包み吐く息冷たい大雪に閉ざされた柳久保神社の境内に妖魔を待ち、佇んで居たのである…。