「のりうる者よ のりうる者よ のりの数だけ あがなえあがなえ_」

此れは"この世"では聖職者として一目置かれて居た方達が死んで…臨死体験は真の《死》では無いですから、此処で言う《死》とは《霊線》がすっかり切れて二度と肉体に魂が戻る事無き状態に成った人の事を言って居ます…そうして冥府の瓦礫の原で目覚め、三途の河原に向かって、戸惑い乍ら、足の痛さに耐えつつ歩んでいる最中、頭上から降り注ぐ声なのです。誰が発しているものなのかは、分かりませんが、一人一人を狙い撃ちする様に降り注ぎます。

聞く所に拠れば、坊主や神主、牧師と言った所謂宗教者だけで無く、占い師、一般的に言われる霊能者…つまり霊能を生業とする者達も、霊界では聖職者として扱われる様です。

要するに自分の言動に因って他人の人生行路と言ったものを変えて仕舞う人達ですね。学校の先生なんかも其の部類に含まれますね…子供達の将来を動かして仕舞う訳ですから…。

そう言う人達は本来は聖職者としての自覚を常に忘れずに、聖職者に相応しい…他に範を垂れる生き方を取らねば成らないのです。

人一倍責任重大である事を自覚した生活態度を求められている訳です。其れが出来無いならば、其の仕事に従事する事は辞めるべきなのです。

其れを只単なる金銭との交換場にしてしまった職業化が昨今の乱れた教師を育てて仕舞った訳です。

教師としての自覚…人の子を育て無ければ成らんとの聖職である自覚の消えた所にこそ、淫れの原因が在る事を知らねば成りません。


私達の住む世界は因縁の世界ですから、「この世」で犯した罪は必ず「この世」と「あの世」で大変な苦労を招く事を覚悟せねば成らないのです。

他人の人生を捏ね繰り回す事を、単なる金儲けの手段とするのは、実は重い罪と成るのですよ。況して宗教家は大変なのです。

法を説き続ける事が使命なのですから。

宗教家程、己れの人生の全てを賭けて法を究め、其れを大衆に説き広めて行くと言う大変な役目を担って居るのです。

皆を悟りに導く事が坊主の任務なのです。

信者を正しく神へと辿り着かせるのが牧師、神父の本当の任務なのです。

氏子を真艫な神々に繋いで遣るのが神主の主要な任務なのです。

皆を神に向かわせる義務が有るのですよ。

自分なりの身勝手な解釈で、空を、法を、つまり命を弄んでは成らないのが坊主、神父、神主と言う方達と言う訳です。

神々を信ずる事も無い様では、最初から神主とは言えないし、法とは何か、空とは何か、真如とは何かを身を以て解かろうともせず、表面的な言葉遊びを以て深遠な哲学をものにした気に成って、寺院を華美に豪壮にする事が己れの役目と履き違えている様では、御釈迦様が預言した通りに成るばかりです。

即ち、曰く「私の教えは軈て滅びるだろう。獅子身中の虫に因って滅びるだろう」…と。

つまり"獅子身中の虫"とは釈迦の教えを忘れて我欲に走る僧侶等の迷いが釈迦の教えを滅ぼすと言ったのです。


冥府では瓦礫の原で目醒めた瞬間から宗教者達の困惑が始まります。我等一般人が抱く困惑の比では無い様ですね。

キリスト者は、最後の審判の時迄は只眠っている筈なのに、汚い瓦礫の上で目が覚めて仕舞った訳ですし、坊さんは姿形も定かならない中有界に居る筈なのに、ゴツゴツと擦れれば痛い石塊の上で目が覚めて仕舞った訳ですし…然も、生前よりもはっきりとした周囲の様子に狼狽えて居る所に、夕暮れ間近の雨上がりの空を思わす雲の彼方から、曳光弾の光の飛礫(つぶて)の様に次々と降り注ぐ光の弾幕が自分目掛けて落ちて来て、打ち当たるのです。

「法売る者よ 法売る者よ 法の数だけ 贖え贖え」…と。

光の弾丸と化した一語一語が身体の至る所を貫通するのです。

「痛い、痛い。ギャッ」と転げ回る宗教者達…


以前、師匠に伺いました。

「回りを歩いている他の一般の亡者達には転げ回っている坊さんや神主さんが何故痛がり悲鳴を上げているかは分からないと言う訳ですか」とお尋ねしたら、

「否否、皆んな分かりますよ。声が降って来るんやから。側に居ればねぇ…法売る者よ…て良い加減な事ばっかり、言ってやがったのかてね。まぁそう遣って坊主は虐め倒される訳やねえ。しゃあ無いやないがな。生きておる時に良い加減にしとった自分が悪いんやから、ほんなもん誰も助けちゃあくれん。自業自得やもん」…と。


"グサリと言葉の矢が突き刺さる"等と好く言いますが、霊界では文字通り光の矢と成り、光玉と成って霊界では実際に身体を貫くと言う訳です。

《言葉》は紛れも無く《言霊》なのです。

言霊と言う命の滴が言葉なのですね。命とは無限のエネルギーなのですから、言葉も生きているエネルギーの端くれなのです。

実は我々が発する言葉も微弱なエネルギーの波動として張ら撒かれている訳なのです、優れた霊能者の眼には其れも見える様です。

特に念を強く込めて発した言霊は一語一語が光玉と成って口から出て行くのが良く視えるそうです。

祝詞や呪文を唱えているのを霊視していると、一心に上げていると、言霊の光と成って次元を超えて神仙の境迄届くのが見えると言います。

逆に心の籠もらぬ言霊は天井迄も保ち得ずに雲散霧消すると言います。

つまり、悟りを極めた方の言霊は宇宙の果て迄響き渡ると言うのは駄法螺では無い訳です。


言霊もエネルギーなのです。思いも同様にエネルギーなのです。共に生きて活動して居るエネルギーなのです…と言う事は、例え遠く離れていても言霊や思いに籠もる念が強ければ強い程、狙う相手に及ぼす影響は大きいと言う必然の結果を生むと言う事であり、然も、因果応報の理が現に存在する以上、思いや言霊を発した限り、発信者もそれなりの報いを受けるのは必定と言う事に成るのです。


言葉で言っただけで何の影響も起こる筈が無い…と、高を括る訳には行かなく成ります。

他人を誹謗したり、悪口を言ったり、貶める言動を吐く事の恐ろしい結果を皆様も良く知った上で、覚悟の上で他人を誂(からか)って頂きたいものです。

若し過去に其の様な苛め等に加担して仕舞った人は、何れ其れに見合った出来事に出遭っても自業自得として甘んじて受けるしか仕方が無いと諦めてくださいね。

霊界と言う世界は厳格な處なのです。

そして、「この世」も実は霊界の一部に過ぎないのですから。