霊界の一番高い處へはどう言う者が行けるのでしょうか…。

嘗て御神霊は次の様に説いて下されました。

一つの道は、《仙道》と言って"仙人の道"が有ると言う訳です。

此れは大なり小なり精神統一をして、只、大自然に己れを託し、無為に生きる事だと言うのです。

此れはつまり老子の゙教えに成る訳です。

何度か僕も書いて来た様に、道徳的善悪と言うものが霊界に於ける位置を決める訳では有りません。

見掛けの゙道徳的善行をどんなに美しく演って観ても、霊界の行き場所を決めるのは宗教的善悪なのですね。道徳的善と言うのは飽く迄"この世"を障り無く生き抜く上では大切ですが、宗教的善は霊界つまり"あの世"で地獄に堕ちない為には必ず不可欠と成るのです。つまり《良い人生を生きなさい》とは、《宗教的に観て良い人生を生きなさい》と言う事なのですね。

道徳的善を為しても宗教的善を成さざる者は地獄に堕ちる事も受け入れ無ければ成らないと言う訳です。勿論、道徳的悪を為して宗教的善を成さざる者は間違い無く行き先は地獄なのは当然と言う事ですが。


其処で、宗教的善に目覚め、そして些かの精神統一に励み、人の道と共に神の道を踏み行うと言う…言わば、大自然の道を究め直すと言う老子の教えです。此れを《仙道》と言うのですが、此の道に従う者は、『神集嶽神界(しんしゅうだけしんかい)』の支配下に置かれている霊界に上がる事が出来るのです。

『神集嶽神界』は国津神の神界です。主神は少名毘古那之大神様です。

此処との繋がりを以て高い霊界に赴く事が可能と成ると言います。

ところが、仙道の道は《天人五衰》に成ると言います。つまり、霊界の一番高い處と言っても…相撲で言えば未だ大関に過ぎませんから、軈て天人五衰で幕下に落ちる事が有りますよ…と言う訳です。

地獄に落下し無い道は、霊界では駄目なのですね。横綱に成らなければ、神仙界迄上がらねば駄目だと言う事です。

第一の道である、仙道の道は天人五衰に遭う危険が有ると言う訳です。


第二の道は…《声聞縁覚の道》を目指す道が有ります。

御釈迦様は"人生は苦なり"と見詰め、其の《苦》の原因を調べるに当り、先ず人間とは何に因って生じたのかを分析して"色受想行識"に因って出来ていると喝破したのです。

"色"とは"形有るもの"ですから"形有る肉体"の事。

"受"は"感覚·感情·知覚"です。

"想"とは"受"に因って得た感覚、知覚に対する判断力…例えば、今見ているものを網膜に写すだけなら単に見ているだけの事。其れを「青い」と観て思うと言うのは、過去の記憶に拠る比較の結果「青い」と了別する訳ですから、一種の初歩的判断力が見る事に並行している訳です。

《思想》と言うと、現在ではイデオロギーとして扱われる訳ですが、思想と言う思い…感覚に写った、捉えたものに対する判断力で得たものを"想"と言うのです。

"行"とは"意志的行為"を指します。

"識"は"記憶を蓄えて置く場所"の事で、自分の行った行為も全て記録されている訳です。言った行為も、遣った事も、自分では忘れている行為も、何もかもが記憶として深い深い潜在意識の中には残って居ると言う、其の場所が《識》と言う訳です。

此の《色·受·想·行·識》を《五蘊》と言います。


御釈迦様は人間を分析した結果、此の五蘊に因って人間は出来ていると結論付けました。

つまり、其の何処にも「俺が」「私が」と言う、《我》と言うものが無いと言う事です。

有りもしない《我》と言うものを振り翳して、「此れは俺のもの」「其れは他人のもの」「損だ」「得だ」…と言っては、自我の上に生じた我欲の上からの判断した損得の選別に於いて物事を決め様とする訳です。

何処にも自我なんか無いにも拘わらず、自我有りと言う立場の誤りを生じ、誤った…惑った意志的行為の事を《業》と言う訳です…。


間違った行為の結果は当然楽しいものでは無いと言う事に成る訳ですから、間違った行為の結果は当然苦しいものと成らざるを得ないのです。

惑った意志的行為の結果が苦しみの中で、苦しいから又間違った判断を生じて仕舞い、又間違った惑うた愚かな意志的行為の業の結果、又々苦しみを味わう事を際限無く繰り返して仕舞う訳です。

つまり、人は惑·業·苦、惑·業·苦を転々とし乍ら六道を輪廻して行く存在である…と説いたのが、御釈迦様だった訳です。こう言う事が所謂『原始仏教』とか『根本仏教』と謂われるものです。


どうすれば人は苦しみから解放されるのか、簡単な事である…自我を無くすれば、惑も無くなる…迷いが無くなれば、迷える意志的行為も無くなるので、軈て《苦》も消える…として励んだのが『声聞』と言う訳です。


此の《業》と言うものを更に詳しく分析する人達が出て来るのですね。単なる《業》として終わらせるので無くて、此れを更に深く掘り下げて行った訳です。

業の中味を分析解明する訳です。

こう言う者達を『縁覚』と言う訳です。

こうして『原始仏教』から『声聞』『縁覚』と言うのを生じたのです。

此の"声聞·縁覚"迄も修行が至れば、霊界七つの層の一番高い處迄上がる事が出来ます。

けれど、此れも《天人五衰》で、亦しても堕ちるのです。


仙道を極めた者も原始仏教としての声聞、縁覚を究めた者も天人五衰で堕ちるのですね。

落ちない横綱への道は…?

結局、声聞、縁覚の上の菩薩に成る以外に道は無いと言う事に成ります。

では、菩薩に成るには何をすれば良いのでしょうか…。


三番目の道は、《菩薩への道》と成る訳です。

勿論、《菩薩への道》として菩薩に成るには、其の"知的解明"即ち《哲学的解明》と《行》とを平行して修得して行かなければ成らない訳ですが…。

つまり、仏教で言う所の唯識·三論·天台·密教と哲理を追って行く事に成る訳ですが、此の哲理と共に密教行法を行う事に因って菩薩への…つまり横綱への道を…と言う事に成るのですが、此れは実は不可能に近いと言います…。

神仙界の存在である菩薩に成るには、下から上がる為の苦労の極致に哲理と行の極致に在るのが菩薩な訳で、理屈では到達出来る訳だけど、そうは行かないのが現実なのです…。

第一に精神統一と言うも、六万七千五百分の一秒と言う一刹那を捉え得る感覚等と言う精神統一はそうは出来る話じゃあ無いです。

線香の灰が落ちる音と言うものすら、遣って観れば判るけど、中々聞こえるものでは有りません。

生まれ変わり、死に変わりし乍ら幾多の修行の結果…最低でも七回の生まれ変わりの果てにやっと辿り着くと言う道です。

正しき師匠、正師に巡り会えれば四回の生まれ変わりで済むと言うけれど、生まれ変わり、死に変わりしている間に一体正しき師匠に逢えるでしょうか…其の上、経文等と言っても、其の深遠な哲理を紐解いてくれる人に巡り逢う事すら不可能に近い訳です。

天台宗と言えば天台の勉強ばかりしている訳だし、日蓮宗と言えば日蓮の勉強ばかりしていると言うのが現実なのです。一切経を読み熟していると言う人を探す事すら中々適わぬ御時世です。

何でも上っ面だけの知識で事足りるとする風潮は、将来も烈しく成って行くかも知れません…益々正しき師匠を探す事が困難に成るのは必然です。

自力で辿る《菩薩への道》は不可能に近いのです。


其処で《菩薩への道》とは《他力で歩む菩薩への道》なのです。既に悟りし方に引き上げて貰うのです。

つまり神々に引き上げて戴くのです。神の言う通りに動けば良いだけなのです。

神の間に間に行う事で、此の身今生の儘、煩悩具足の儘に悟りへ至る…《大乗の教え》であり《神道》が本来の《菩薩への道》と成るのです。


第四の道は…

其れは天命を受けて佛の世界、神々の世界から降りて来た魂は霊界七つの層の一番高い場所だけで無く神仙界迄行けると言います。普通の人は徐々に下から上に昇って行くので霊界ではこう言う人達を『昇り魂』と呼びます。

天命を受けて上から下へと降って来るので、天命を受けし方を『降り魂』と言う訳です。

其の人の主護霊は『昇り魂』であるけれど、末魂は『降り魂』と呼ばれる訳です。

但し、天命を全う出来無い場合は落ちる覚悟をしなければ成らないと言う訳ですから、結局、人が霊界の高い世界に赴くのは昇り魂であろうと、降り魂であろうと、本人の《自覚》如何に懸かっている事に変わりは無いと言う事なのです。

どの道を選ぼうと…です。


《人間の価値は自分を如何に自覚し得るかに拠るのです》…。