我々の世界は何処を切り取っても《因縁》だけが動いているのです。
当然、其処には善も悪も無いのです。其の事を先ず心してください。

因縁とは、其の中味は、直接原因の"因"と間接原因を示す"縁"から出来ています。だから、其処には善悪は無いのです。

例え、善意から行う行為であっても、行為そのものが霊的に悪と成れば、自業自得としての報いに甘んじなければ成りません。

現在は過去の因縁の《果》として在る訳です。

そして《果》であると同時に《因》としても在る訳ですね。其れが《縁》に触れる事に因り未来の《因を含む果》と成り、其れが永遠に続いて行く事に成るのです。何が言いたいかと言うと、私と言うものが存在している原因は私が生まれる以前に既に《因》として在ったと言う訳です…其の《因》を《主護霊》と呼ぶ訳です。又は《私の前世》と呼ぶ訳です。


一人の人間が此の世に生まれて来る為には、三人の人間が必要と成るのです。

母✕父✕主護霊=私

…と言う訳です。

もう少し具体的に言うと、《母✕父=私の肉体》+《主護霊=私の心》=《心を持った私》と成る訳です…と言う事は、《主護霊の心》が《私の心》だと言う事に成る訳ですね。そして因縁論を此の公式に当て嵌めれば、《私の主護霊の心》は《私の主護霊の主護霊の心》つまり《私の主護神の心》も《私の心》と同じ事に成る訳です。つまり《私の心》は永遠に本質は変わらない事に成るのです。

では、何が変わるのかと言えば、生きる時代と生きる処に因り経験する事と肉体の親が変わり、必然的に環境の違いから生じる欲望の形態も違う事に成りますね。つまり私を取り巻く環境に応じた我欲が私の本来の心に上乗せされて仕舞う訳です。

其れでも本質に在る《私の心》は変わらないのです…其れを私達は《良心》と呼んだりする訳です。

以前、僕が"良心の出処は主護霊に在る"と言った理由はこう言う訳でした。即ち霊統主こそが私の良心の源泉と言う事です。

一人の人間が生まれると言う事は、時空を超えて神の分霊が誕生すると言う意味を持っている事をお判り頂けますか。

無意味で無駄な人間なんて存在して居ないのです。

霊学を知る事で、其れが良く判るのでは無いでしょうか。


然し、時を重ね、生まれ変わる度に夫々積み重なって来たものが、所謂迷い、惑いつまり物理的肉体を持つ事から生じる哀惜の念が起る事から生じる錯覚識が正しい道…即ち良心の本来持てる声が聞こえなく成ったのも事実…其れが現在の我々の姿かも知れません。


人間として三次元世界に生まれ出る為には上述した様に父×母×主護霊と言うものが必要不可欠な訳ですが、《主護霊》は原則として《私の血統上の者》であり、或る程度の上層界の霊人が神に申告する事で主護霊と言う立場と成る様です。

然し、自然霊である龍神や天狗も又、主護霊として人間の中に宿って生まれる場合が有ります。

其れは《人間だけが直毘を持っている》からなのです…。つまり《人間だけが悟りを得る》事が出来ると言う事です。つまり人間だけが神と同じ席に付けるのですね。

龍神や天狗は悟りの機縁を得る為に人間に成ろうとしているのです。然し、元々は人間で無い為に人間の中に入っても長くは留まれ無いのだそうです。

其の為に一度人間として生きて、人間として死ぬ事で二度目は人間として人間の中に入れますから、真艫に人間としての寿命を生きられると言う訳です。此れが胎児の侭に亡くなったりする理由の一つなのです。

必ずしも、胎児の内に死ぬ訳では無い訳ですが、生きても三歳とか四歳で此の世を去るのだそうです。其れは生まれる前から定まっている事なのです。早く亡くなる事を承知の上で生まれて来る訳です。

龍神が女性に生まれた場合、必ず所謂"石女"と成るそうです。其の変わり本来力有る龍神故にどの分野で有っても其れなりの成功を修めると言います。


さて、親の都合で水子に成る場合は、霊的に観て何が起こるか…実は水子霊と言うのは母親の腰の付近に留まる様です…。

丁度、毬藻(まりも)の様に観える丸い形をしたものが女性の腰の辺りにプカプカと浮かんで居たら、其れが水子の霊です、偶に何個も腰の近辺に纏い付いて居ます。其の数だけ墮胎していると言う訳です。

世間では"水子の祟り"なんて事を簡単に言いますが、祟りの相手は親では有りません。

子供は誰を恨むかと言うと、命を直接断った者を恨むのです。つまり。直接手を下した張本人である産婦人科医を恨む訳です。

例え、善意で行うた行為でも霊的には他人の命を断ったと言う事に成り、当然殺された者の恨みを買う行為と成るのです。

動機が例え善行であったとしても、他人殺しと言う行為に対しては、恨みは恨みだと言う事を忘れないで欲しいのです。

因みに、主護霊は受胎した瞬間から胎児のか中に籠もり、十月十日共に母親の胎内で子供を護ります。体外に生まれ出た瞬間から背後霊七柱が付いて八柱で守護に当たると言うのが人生を歩むと言う事に成る訳です。


墮胎すると言う事は、やはり恨みを闇に葬った者に向けて発せられるのです。

例えば、其の単なる職業的産婦人科医は多くの赤子の恨みに包まれて地獄に堕ちました。善意の仕事が軈て単なる職業としての赤子殺しの習性を呼び、地獄でも同じ様に同じ赤子達を何度も何度も殺し続ける事に成るのです。其の度に赤子達は何度も何度も痛さに悲鳴を上げ、其れが軈て強烈な恨みの思凝霊と成り、医者と其の医者を招いた母親を襲う訳です。母親は腰の痛みを覚え、女性器に関わる病に冒されたりすると言う事に成るのです。

墮胎専門にしていた或る産婦人科医が辿った真実の話です。

勿論、水子が辿る道も千差万別ですから、皆が此の様な境遇に陥る訳では有りません。一般に水子霊は、何とか再度生まれ様として腰の近辺に待機している訳です。

そして、妊娠したチャンスに其の卵へと飛び込む訳です。つまり、二度目の妊娠にて生まれた子供は、最初に墮した子供で有る場合が多いと言う事です。子供に執っては生まれる事が適った訳ですからハッピーエンドです。

つまり、水子が有ったとしても、親と成る環境がまま成らず、泣く泣く墮胎したからと言って、悲しむ事も済まないと嘆く事も無い場合も有ると言う事です。怪談話の様には恨まれる事は無いのですから…大丈夫ですよ。


然し、己れの快楽の為に、何度も繰り返し墮ろせば次第に子供の恨みが募る結果と成り、年齢だからなんて言って、やっと子供を生んだ時には、潜在的に親を信じない子供が生まれる事に成るのです。何度も妊娠しては墮胎して、生まれ出る喜びを裏切って来たからです。

そして大きく成って、親を殺したり、親に苦労ばかり掛ける様な子供と成る訳です。

其れも又因縁の世界、此れも又、親達の自業自得の結果なのです。