『使魂の法』と言うのは、現在の歴史以前一万二千年程彼方から、途絶えていたと言われる大道の行法である。此の神仙の行法を生前の宮地水位先生が国津神の世界を紹介成された事から世に知られる事と成った神仙の行法を言います。

尤も、現在では『使魂の法』に就いての書物も幾つかは出ているみたいですが…。


世に天眼通、天耳通と言うものが有ります。

霊界並びに神仙界の消息を眼に於いて其れを捉え、其の霊界、天界の声を耳に聞くと言うものです。

所謂、『神通力』として分類される類のもので、神通力とは、"天の運行、動きは神の意志に因り、神の大局の意志は既に定まれリとは言え、但し、方法、手段に変更の余地無き時に於いて、神の意志は何等隠す所無く、神の身体である自然の中に常に表れている訳じゃが、声無き声を読み取る禅定が統一の力を持たずしては、声無き声としての神の意志の自然に顕われたる姿を其処に読み取る事は不可能じゃと言う事に成る。

自然の声を読む…自然に表れたる神の意志を読む事を称して、此れを本来は『神通力』と申したと言う訳じゃ。禅に於いては『看経(かんきん)の眼』と言っておる"…と御神霊は説いて下されました。


実は、此等は『使魂の法』の一番最初の行法として上げられているのです。

『使魂の行法』にあっては、一番最初の行法なので、此れを『童子の法』と言います。

『童子の法』に始まり、十二通りの行法を以て『使魂の法 十二ヶ条』と言い、此の十二ヶ条全てを身に付けた者を、実は古の…言わば、消えた歴史に於いてはこう言う人達を《仙人》と言ったのです。

全て行法は口伝で残されたので、軈て時の彼方に全て消えて行った様です。

多分、文字で遺さなかったのは、後の我欲固まれる人間が…興味本位や単なる知識を求める輩が…不用意此の行法を安易に扱えば、罪を犯す怖れが有ったからでしょう。

何事も神事に関わる限り、心の準備が整わない人間が興味本位、面白半分で扱えば大変な事に成ると言います。

此れは威しでも、駄法螺の世界でも無い…と、御神霊が好く口にする所です。

"神在れば邪神在り、海人界在れば其の裏に大蛇(おろち)界が在って、邪道に落ちる恐れ有り"

…なのです。

人が"心迷わす時には神と観えしものが恐ろしい邪神也"と言う訳です。

要するに、神々と直に触れ合う為の、奇しびさと言うものを身に付ける資格を得る者は、心迷わしては成らないと言う、心迷わす時には恐ろしい結果を招く事にも成りかねないと言う訳ですね。

自覚が常に大切と成る…と言う事です。

"触らぬ神に祟り無し"と言う諺にも相通じる様です。


『使魂の法』の第一ヶ条は『童子の法』でした。では、残りの法には何の様なものが有ったかを、御神霊が解り易く説いて下されましたので、列記したいと思います。


第二条は『想満の法』で、何と言うか…寝ている間に魂が飛魂して、天界を…殊に霊界上層部から神仙界に至る、まあ、言うなれば"我々地上に住む人間に執っては神の領域に当たる霊界"迄を飛魂出来る行法が想満の法です。


三番目が『長全(ちょうぜん)の法』、此れはかなり不思議な法なのです。

"右の目から三寸ばかりの女の子が飛び出して、左の目から三寸ばかりの男の子が飛び出して来て、其れが何時の間にか一人の人間に成って、男が見れば男と成り、女が見れば女と成り、其れが次第に大きく成って、恰も一個の人間の様な形と大きさに見える。そして、"其れ"が身に降り懸かって来る幾多の危険を教えてくれる"と言う行法が長全の法なのです。一寸アニメの世界に出そうな行法だけれど、現実世界の事です。

霊界に於ける現象は時に漫画の世界そのものと言う様な、怪物や化け物が跳梁跋扈する舞台と化す事も好く有る事なのですよ。


四、『感根(かんこん)の法』…己れが根本と通じる事に因って、主護霊と自由に意志を交わす事が出来る様に成ると言う…つまり、主護霊の語る事が自らに分かり、同時に自らの意志も労せずして主護霊に迄通じる様に成ると言う。


五番目が『眞寿(しんじゅ)の法』で、天命を全うする。又は天寿を全うする事を指しています。


六番目が神佛と自由に語らい合うと言う事で『空玄(くうげん)の法』と言います。


七番目は海水を汲んで来て、其れに海人界を写し取れる様に成る『通谷(つうこく)の法』。


ハ番目に、今度はコップに水を汲んで、其処に全ての世の動き、天界、神仙界、霊界と言う汎(あら)ゆる物の動きを写し取って見る事が出来ると言う『鏡感(きょうかん)の法』。


九番目にものの善し悪し、つまり遣って良い事か悪い事かと言う、所謂、善悪…善し悪しと言うものを知る法で、此れを『感囲(かんい)の法』と言います。


『使魂の法』の十番目が、無意識では無く、意識が有る儘で魂が肉体から抜け出して行くと言う"飛魂の法"で、自由自在に如何なる處にでも飛んで行って其れを極めて来る事が出来る様に成ると言う…此れを『歩合(ほごう)の法』と言います。


十一番目は『合一(ごういち)の法』と言って、一種の座禅の悟りの様に、山と一体と成り、川と一体と成り、其の辺の犬と一体と成り、猫と一体と成り…対するものと全て一体と成ってそのものの心を知ると言う法です。


そして最後の十二番目が『自成(じせい)の法』です。此れは謂わば"若返りの法"なのです。

但し、誤解無き様に願いますが、此れは若さを保つ法であつて別に髪の毛が白いのが黒く成ると言う類のものでは無いですよ。

其れ丈の若さの体力を何時迄も保って行くと言う法なのです。

段々と其れを行って行くと、身体も七年にして若返って行く訳です。中国に今も居る四人の神仙達の様に、三百歳も五百歳も生きて行けない事は無い…と言う法ですが、御神霊は「まあまぁ余り長生きはするな」と仰せでしたが…。


此れが『使魂の法』の十二ヶ条と言う訳です。

師の飛魂現場等を観ていると、あれが"歩合の法"と呼ばれるものかと今にして思い当たりますが…

"空玄の法"とか"鏡感の法"等々、全て師匠の神通力の解説をしている様です…。

人間と神々とが共に次元を超えて触れ合って居たと言う、つまり直毘の時代と呼ばれた頃には好く知られた行法が即ち『使魂の法』で有ったのでしょうね…。

何処でも誰でもが神々と直接語り合えたなら…素晴らしい時代が確かに現実に在ったのです。