人間として大切な基本の一つに、実は『精神統一』が有ります。

何の為に精神統一をするのかと言うと、其れは"祈りをする"為なのです。

何故祈りをする為位で精神統一が必要に成るかと言えば、其れは"其の祈り一つの事に集中する事が出来る様に成る為"にはどうしても必要に成るのです。

只、何と無く"祈った心算(つもり)"の祈りなら精神統一なんかは必要有りません…言う迄も無い事です。

其の様な"祈り"は…失礼な言い方で申し訳無いですが…安定しない祈りと成り、残念乍ら神社の屋根迄も届かないのです。況して次元を遥かに隔てた神々の元へ等と届く道理が有りません。

祈りの言霊だけに全身全霊を注がねば成らないのです。

祈る時には最後迄『一念無想』で"祈り"に徹しなければ成らない訳です。そうして、やっと因縁有る神々の處に"祈りの意念"が届くのです。

其れ程に《祈り》をすると言う事は必死に成らねば成就しないものなのです。

《神を祈る事は命懸け》なのです。


実は《祈り》とは《意乗り》と言う事なのです。

誰の"意に乗る"事なのでしょうか?

勿論、神々の"意"即ち心に乗る事です。だから『祈り』なのです。

神々の元へ届ける意念は、神々の意に乗るものだから神々が成就して下さるのです。其処を勘違いしては成らないと言う事です。

例え、"祈り"が届いても、神々の意に乗る事で無ければ叶う道理が無い事…大事な点です。

"祈りは意乗り"ですから、従って《神の願望、本願に"あなた自身"がそっと乗る事を称して祈り》と言うのです。此処を外しては、本当の《祈り》には成らないのです。

"あなた"の願いが主体では無いと言う事です。

"あなた"が《主》で神が《従》では無いのです。

『霊主体従』と言う基本線を近年の人間はすっかり忘れて居るから神が分からなく成ったとも言えるのですね。

"意乗り"の基本も解らずに、「おお!神よ神よ…」とがむしゃらに、そして自分の神だけで有るかの如き自我を幾ら重ねてみても、そんなものは何にも成らないのです。


霊界は整然とした秩序の有る世界なのです。

"あなた"と言う霊には霊統主を通して霊流が、秩序有る順序を経て、注がれると言う仕組みに成って居るのです。

仮に霊統主を発電所だとしましょう。

発電所から出た電流が変電所の変圧機を通り家庭のコンセントへと耐久可能な電流と成って流れ入るの゙と同じ事なのです。若し発電所から直接家庭に電気が来たらコンセントは高圧電流に耐え切らず燃えて仕舞うのがオチです。

家庭と発電所の間には必ず中継所が在るのが秩序と言うものです。

霊の世界も、高次元世界から我々の三次元世界へと直接霊流は流れ込む訳では無いのです。

コンセントが爆発する様に、普通の人間は気が触れて狂って仕舞います。

此の中継所に当たるのが、神仙界で在り、霊界の上層界に成る訳です。

天界から神仙界へ、神仙界から霊界へ、霊界上層界から"あなたの主護霊"へと霊統主からの霊流は流れ、そして漸く家庭電気である"あなた"へと主護霊を通って霊流が注ぎ込まれる訳です。

神の意念は此の秩序の中に整然と流れて行くのです。

ですから、"あなた"の常に祈るべき対象と成るのは主護霊を措いて無いと、何時も僕が言う意味が、之でお解り頂けるのでは無いでしょうか。


其の主護霊へ向けて、丹念に祈る事が、神々に通じる道に成っているからです。

然し、幾ら必死に喉も枯れよと「おお、神よ」と特定の神をお呼びしたからと言って、順序を違えていては通じるとは思わない事です。

私達がルールを踏み外しては、神は絶対に遣って来る事は無いのです。きちっとした霊界の秩序に沿うて霊流は戴かねば成りません。

其れが正統な祈り方なのです…そして、其の為に精神統一をします。


此の"雑念を去る"と言う事が、実は恐ろしく大変な事なのです。

ちょっと真艫に精神統一を遣って観た人なら分かりますが、自分の心なんてものは簡単に精神統一など出来無いのです。

稲津先生がお若い時分、初めて精神統一と言うものに挑戦成された時の思い出を、次の様に述懐しておられます…

「半年程、師匠から兎に角遣ってみよ…と言う事でしたので、スタートを切った訳です。

座禅を組み、「ムー」と座れと言われますが、"座る"と言う事は並大抵の事では有りません。

先ず以て、一日一回座り始めて四十分程ですが、足は痛く成る、腰は痛く成る、息は荒く成る、しんどく成るし、眠く成るし、気が付いたらコックリコックリ居眠っているし、精神統一どころの騒ぎか…兎に角身体中が痛くなって、どうにも成らない時期が有りました。

ところが、習うより慣れろで、段々慣れて来ると…と言いましても、身体を慣らすの゙に半年は掛かります。

最初は一日一回座り、段々回数を増やして、休みの日など一日に四回、四十分位ずつ座って観ますと、今度は座っている方が楽だなと感じがして来る。

眠る方がしんどく成る。

此の辺へ来ますと、大分座れる様に成ったなぁと。


禅と言うのは、先ず《身体を整える》。

此の身体の整えだけで半年間。

半年座って観て、やっと身体が慣れて来る。身体が慣れて来ると、次に困るのが"息"なのです。

息遣いと言うものは、禅の極致は《虫の息》と言って、"吐くのに一分、吸うのに一分"と、師匠が仰いました。

遣ってみましたが、一分で吐いて、一分で吸うなんてとても出来ません。

精々、十秒位吐けますが、直ぐ苦しく成って吸い上げて仕舞いますから、十秒吐いて十秒吸うのがやっとで、一分吐いて一分吸うなんてとても出来るものでは無いのですね。

息が乱れ始めますと、今度は雑念が一杯湧いて来ます…今日のおかずは何だろうとか、訳の分からん顔がボーッと出て来てビックリしたり、或いは背中がゾーッとし始めたり、ザワザワと自分の周囲が騒ぎ出したり…霊ですね…かと思うとラップ現象が起こります。

神前で座って居ますと、バシッと音がしてびっくりして飛び上がる事が有ったり、天井がコツコツ鳴り出して嫌らしいなと言う現象が起こったり…とても堪ったものでは無い。

そう言う時に限って息が乱れます。

つまり、非常に"息遣いが難しい"のです。

此の《息に慣れる》と言う事は並大抵の事ではありません。


此れは皆さんお祈りをされていると分かると思いますが、思い掛け無く時間が経っている事が有りますが、こう言う時は没頭している時でありますから、身(しん)息(そく)の息の部分が大変整っているかなと思います。

「よし!調子が良いぞ。明日は更に奥へ行くだろう」と思って、翌日座って観ると又元の木阿弥です。

繰り返し、繰り返し、息が整いません。

二進も三進も行かなく成ります。


さて、息が整いますと、《禅は最後に心の整え》を言います。

《身(しん)·息(そく)·心(しん)》と申しまして、此の"心の世界"が、何とも分厚い壁にぶつかります。

心乱れに乱れて…其れをも乗り越えて、相手にせず、そして雑念が彷彿と湧いて来る、波の如き心に気付きます。

波は皺(しわ)です。其の皺が矢鱈無鱈(やたらむたら)現れたり、或いは色々な現象を起こし出す訳ですが、此の心が明鏡…鏡の様に…なんて言う事は空論でありまして、とてもそんな世界へ行けるものではありません。

悶々と心にぶつかって悶々と心に悩み、そして此の心を一体どうすれば良いんだと言う様に思い始めます。

其の"心の放棄"…即ち其れを断定(だんじょう)しないと、雑念を追っ払わないと『悟り』に到達しないと思う時、気が遠く成って仕舞います。

遣って観て初めて分かります。とてもじゃ無いが精神統一なんて簡単に出来るものじゃ無い。

自分に才能が無いんだろうかと思い始めます。


師匠は神様に向けて『鎮魂帰神』を遣れい…と。

ひー、ふー、みー、…と言う様にして、心の統一の神歌を歌い乍ら、更に線香一本分約四十分此れも遣って観ました。

然し乍ら、全く心乱れに乱れて仕舞います。

精神統一とは、生易しいものでは無い。

然し、今生に於いて訓練して置かないと、慣れて置かないと、死んだら精神統一しか無いのです。


つまり"神を祈る"…《祈りとは神の意に乗る事》ですから、"相手に全てを投げ掛けて、随神(かみながら)即ち神様にお任せしましょう"と言う心が精神統一に大変な影響を与えます。

《精神統一とは随神の大道》と、神道ではそう言います。

南無阿弥陀佛と唱えている佛教信者の方々は、《南無(パーリ語ではナーモ、梵語ではナマス)》と言うのは"お任せします"とか"全てを帰依します"と言う事です。つまり、佛様に全部投げ掛けてお任せしますと言っているのです。

此の阿弥陀如来に"南無"つまり任せる事でありますが、此れが《南無阿弥陀佛》の呪文です。此の六文字が『唱名(しょうみょう)』であります。


こうして精神統一を覚える事に因って、霊界を視ると紛れも無く、高い霊界の霊人達は全部祈りを捧げて居ます。

従って、神道であれ、キリスト教であれ、佛教であれ、そこそこ祈り込んでいる人達は少なくともかなり高い…とは言いましても、光焔界以上の人は少ないですけれども…其の辺の處迄は到達可能だと言う感じがします。

況して高い霊人、即ち此の光焔界以上、光明界、更に超越界、究境界に成ると、全部祈って居ます。


さて、私達が霊界へ行きました時、それだけの祈りを只管神に捧げる事が出来るでしょうか。神様のお手伝いをすると言うエンゼル、天使の役目をする者は、少なくとも『祈り』に徹しなければ成らない。

『祈り』を覚えなければ成らない。

『祈り』に慣れなければ成らない。

そして、『祈り』とは、《神の意に乗る事》を知らなければ成らない。

其の様に師匠からは教えられたと言う訳です」

…と。