『神霊知識』とは、《神の実在を知る事》です。

霊界と言う處には、当然の事ですが、我々の様な"凡夫"が行く霊界だけで無く『悟れる者』が行く霊界と言うのも在る訳です…言う迄も無い事なのですが…。


どうも《霊界》と言うと、所謂、"神様"と言うものとは無縁な世界と思う人達が結構居る様に感じますが、実際には神様と言うのも、私達人間の延長線上の存在であり、決して"御伽噺"とか、所謂、"弱い人間が想像上編み出した"と言う空想上の産物では無いのです。

私達が行く霊界の高い世界に住いされている、我々と同じ霊界人なのです。

但し、次元を超えた霊界に御住いに成って居るだけです。

神様は人間の勝手な都合に合わせて想像されただけのものでは無いのです。

其の神様の住む霊界を別名『神仙界』と称している訳ですが、所謂霊界と神仙界は炎の壁とも言えるものに因って次元的にも隔てられている訳です。更に神仙界と次元を超えて存在する更なる高次元には、更に古くより存在し続けて居る高級神霊の住む世界が在る訳です。

伊邪那岐之大神、伊邪那美之大神で凡そ十一億年前から此の世的には存在成されて居られると言う事からも、霊と言うもの゙には所謂"死が無い"事が分かろうと思います。神と雖も我々と同じ《霊》なのですから。霊には《死》と言うのが無いのです。

当然、天照坐主大神(あまてらしますすおおかみ)·天疎日向津毘賣之大神(あまさかりひゅうがつひめのおおかみ)所謂一般に言う天照大神も個性有る《霊》の一柱なのです。只、我々に執っては無限に思える程の遥か彼方に存在している霊なのです。

然し、理論上は私達人間も永い期間を歴(へ)れば《神》と呼ばれる存在迄達し得ると言う事に成ります…どの位かと言えば、私達の様な人間としての姿をされて御生まれに成られ、初代天皇でも在らせられた天之日子穂穂出見之大神様は神界第三層の御神霊で在られますが、其の御方が凡そ百万年前に誕生召されたと言いますから、やはり気の遠く成りそうな歳月を要する事に成りますね。


神界、神仙界と言うのは、日本の歴史上で悟られた方々を中心に御在す訳ですから、神界と言うのが如何に遠く遥かな世界であるかがお分かりに成ると思います。

ところで、此処で言う"日本の歴史上"と言うのは、飽く迄古事記、日本書紀と言う、所謂一般的に認知されている"日本の歴史上"と言う事であって、《真実の日本の歴史上》とは一切申していませんので、お間違い無き様に…考古学的に観て実証し得る年代だけでも三万年位迄は将来確認出来る筈だと御神霊は申されておりました。

何れにしても、此の神仙界と言う處に御在す神々が、直接的に我々人間界だけで無く所謂"霊界"を指導召される御立場の方々であると言う事に成ります。

神仙界は神界の神々と霊界及び人間界の繋ぎを成さる方々の世界だと言う事です。

其れ故、佛教的には菩薩方に当たられると言う訳です。実際、菩薩として御出現召されても居られます。


そう言う高い世界に、上宮太子や弘法大師、九鬼大隅守、安倍晴明公等が御出に成ると言う事ですから、当然、神霊知識と言うものを如何に持つかと言う事がやはり大変大事に成って来るのです。


一体、御主護霊が私達末魂に対して、本当は何を求めているのかと言うと…勿論、"個人的な望み"と言うのは大前提と成る訳ですが、主護霊、主護霊…と霊統を辿る事から生じて来る、言わば"霊統上の願い"と言うものが背後に有って然るべきですね。では其れは何かと言うと、実は《霊界で神祭りの参加》を求めていると伺っています。

何故なのでしょうか…。


実は《霊》と言う文字を紐解くと、霊の旧字体である『靈』は、"雨"に"雨垂れ"が付いて、其の下に"巫(みこ)"で"靈"と成ります。

『巫』とは"天と地の間に一本の棒を立て、其れを向かい合う二人の人が持ち、地面に棒を通して降りた神の意志を文字として綴る事"から《巫》と言う文字が成り立っている様に、"雨"と言うのは《天から降るもの》を表しています。"雨垂れ"と言うのは、具体的に天から降る意志、心を示している訳です。

"巫"は、言う迄も無く《二人の巫女》の事です。

本来、巫女は神の意志を取り次げる、つまり霊能者で無ければ巫女には成れなかった訳です。

"巫女"が本来は直接神の神籬と成った事から『神子(みこ)』とも書く訳です。

『巫』と言う文字は神道儀式の要とも言える『龍杖』の様子を表しています、即ち二人の巫女が支えた竹の棒の先に筆を結わえて、紙に神が文字を書く

と言うもので、昔は結界で囲った砂地に文字を書いては消していた様です。神が文字を書く為のものだから《紙》と言うのですよ。

つまり、《靈》と言うのは、"天降り(あまくだり)"を捉える世界を示している訳です。

主護霊達は此の《天降り(あもり)》の指示の範囲に在るのです。

霊界と言うのは、霊格の高い人達、低い人達が秩序整然として神祭する事に因って主護霊は限り無い喜びを持つ…と言います。


但し、主護霊にも、やはり高い低いと言う…魂の成長度合いと言うものが有りますから、本来の主護霊と言う概念からは外れますが、霊は分霊を発すると言う意味では、やはり地獄の住人であっても時至れば分霊を発しますから、形態的には主護霊と同様の立場に成り得る訳です。

そう言う人達は、天から降って来る"天降り"としての光に向かうのでは無く、逆に避けよう避けて逃れ様とする訳です。

光を避けるのは、其れ丈霊が低い存在である訳です。其れで低い存在の人は光の差さない暗がりやジメジメした場所を好む様に成るのです。其処が彼等には居心地が良いのです。彼等には光は恐ろしいものなのです。


高い霊程、より光に向って上昇し、そして《神々の光》に向けて躍進しているのです。

《光は意志》です。

其の"意志"を神々が降され、降された神の意志…つまり《神示》を取って、其れを主護霊は"この世"に誕生させた末魂に"無死の知らせ"を以て伝える訳です。

こうして、《天の生業(なりわい)》としての仕事を果たさせ様としているのです。

高い主護霊程、末魂に対して色々な仕事を要求して来るものだし、重荷を背負わすものなのです。

主護霊は重荷を背負わす場合、先ず先々の環境を準備してから、末魂に重荷を托す訳です。

其の事を知らねば成りません。決して重荷で沈む事が無い様にしてから背負わすものなのです。必ず出来ると信じて与えると言う事を知って置かねば成りません。


世の中を渡る為に、敢えて重荷を担がせるのは"あなた"を信じている主護霊なのです。

実は、"この世"に於いて苦労している人程、逆に高い魂の人が多いのです。

"この世"で楽をしている人に低い霊の人が多いと言う事です。


霊的存在として観た場合は、三次元物質世界に於ける満足度…充足した物質界のバロメーターと並行してはいないと言う事です。

私達は此の世に於いて、つい物質的な欲望の充足や人間関係の縺(もつ)れだけに終始しますが、私達に宿って居る…と言うより本質である魂には主護霊の意念と言うものが有る訳です、其の意志はより高貴でより高度なものです。

其の高貴でより高度なものが光を全身に受けて更に高く成長して行く訳です。

其れが悟りへの因縁作りと成る訳です。

忘れては成らない事は、私達が霊である限り、霊の目指すのは最後は『悟り』以外に無い事です。つまり、一介の霊人である私達が神々の場に並び立つ事なのです。


精神構造の世界の中で如何にして、光を受けるかが主護霊の高まりなのですから、天降って来る神示を如何にして取るか…此れが霊界に於いて非常に高い主護霊の存在と成って行く訳なのです。

霊界に於ける最上層に当たる『究境界(くきょうかい)』と其処に続く『超越界』は、《神仙界の神の使徒》の世界でも在りますから、言わば《天使の住む霊界》と言う事に成ります。其処に住いする事は主護霊に執っても大変な喜びと成る訳です。

其の喜びこそ、聖業楽運動に向かう神々の仕事のお手伝いをして行く事に成るのですから、厳然として霊界は神霊が宿って居られる處と言う事なのです。

其の事を現界に生きている時から深く知って置ければ、死んだ後に於いて大変な霊の向上に成ると伺って居ります。


私達人間は肉体因縁である《国津神因縁》と主護霊の霊的因縁である《天津神因縁》の二つの因縁結合に因って"私自身の姿"が在るのです。

其れ等天津神も国津神も神霊として実在して霊界に於いて躍動している訳です。

其の躍動する姿を私達に中継してくれるのが主護霊なのです。

そして、其の主護霊は末魂である私達に仕事をさせようとして、七柱の背後霊を操って居ると言うのが"私"と言うものの基本パターンなのです。

そして、神社に"真艫に御参りする事"で、背後霊が一柱、一柱…と増えて行き、主護霊の力が次第に強く成り、それだけ末魂の私達も次第に多芸多能と成って行く事に成ります。

下世話な言い方をすれば、現界に於いても私達の周りにラッキー性と言った事が増えて来ると言う訳ですね…。


ともあれ、特定の人…実はこう言う人を"因縁有る人"と言う訳ですが、全ての人が何等かの因縁有る人に成る訳で、其の因縁とは霊統主である神との因縁と言う訳です…に仕事をして欲しいので、仕事をして欲しい相手と何としても繫がろうとするのが、主護霊、背後霊、指導霊の方々であり、此等の方々を操っているのが当然其の遥か上に御在す因縁有る神と言う訳です。

神の世界からの霊流が、そう言う形を辿って私達に直流として入る時、此の上無き喜びに成る訳です。

主護霊は光に向かって進みます。

従って、私達が持つべきものは、間違い無く主護霊と同じ知識と成る訳です。

主護霊は神の存在を知っているのです。

私達は肉眼で神が見えないだけなのです。

霊的光が見えないだけです。

だから、ともすると神の存在が分からなく成るのです。

だからと言って、神の存在そのもの迄も疎(おろそ)かにした侭で"あの世"へ行く事は、大変な不幸を招くだけなのです。


だから師匠は常に「正しい神霊知識を持て」と強く仰せでした。