佛教理論と言うものを背景にして『霊学』を観ると、非常に分り易く合点が行くかも知れません。

私達には夫々が前世…時代は異なりますが、大体三百年以上以前の時代を生きて来た訳です。

そして、其の前世である御主護霊が霊界で"因"を作り、其の"因"が血統を辿り、現界に於ける父母の"縁"に因って我が子である"あなた"が誕生する訳です。

《"この世"に生を受ける》と言う事は、《前世のあなたつまり主護霊》と言う"因"が《今生の両親》の"縁"を通って《あなた》が"果"として顕れた訳ですから、"あなたと言う果"にはちゃんとした"主護霊と言う因"が必ず存在していると言う事です。


…と言う事は、《"あなた"と言う"果"》が今生に於いて活動して、軈て霊界へと行くと、"あなた"が今生で出来なかった願いを実現しようとして、今度は《"あなた"が"因"》と成り、今度は"あなた"が現界の血統を辿り、次の"縁"を得て"あなた"は分霊を発し"果"としての《血統上のもう一人の"あなた"》を未来の日本の何処かに誕生させる事に成りましょう。


其の"あなた"の願いを実現させる為に…三百年後か四百年後かは分かりませんが…必ず"あなた"は自分の分霊を生むに違い無いのです。

そして、未来の現界に於いて"未来のあなた"は内に潜めた願いに導かれ、何故かは知らないけれど止むに止まれぬ心の底からの渇望に誘われる願いですが、結局果たし得ずに歳を経て霊界へと去ったなら、又望み半ばを悔い、"果である未来のあなた"が新たな"因"と成り更なる未来へと"縁"を求めて行く事に成りましょう。

そう成ると、因縁果と言う因縁だけが廻って居る事に成り、《己》等と言う《固定した己》は最初から、何処にも存在していないと言う事に成るのです。

《己》は"今生のあなた"ですか、"今生のあなた"の中身は"前世のあなた"なのですよ。では"前世のあなた"なのかと言えば、其の中身は"前前世のあなた"なのですから、本当の"あなた"と思い込んでいる、所謂《自我像》たる"あなた"は所詮は只の幻に過ぎなく成ります。

其れを御釈迦様は『諸法無我』と仰った訳です。


御釈迦様は、どうしたら皆が其の事を御釈迦様が味わった様に実感、体感する事が出来ようか…と悩んだ訳です。

結局、御自分が悟りに到達する為に遣った事を遣るしか無い…と。

日本の匠達は只管黙って真似る事を求めるの゙と同じ事です。そうやって昔は学んだのです。理論を頭に入れる前に先ず五感で学んだのです。

実は、《学ぶ》と言うのは《真似る》事から身に付けたのです。"学ぶ"の語源は《真似る》なのです。


御釈迦様の行った通りに、身体を整え、呼吸を整えそして心を整える事つまり禅定に入る事で、御釈迦様が味わった事を観じ止める為には精神統一を措いては無いと言う訳です。

心を涼やかにして、統一して行く事に因って、世の中の真実が読み取れて行くのです。

つまり、『宇宙の構造』が手に取る様に読めて来ると言う訳です。

こう成って行く境涯…状態を称して『涅槃寂静』と言うのです。

其の『涅槃寂静』…つまり、静かに己れを見詰める事を『静慮』と言われた訳です。


嘗て、I先生が師匠から「禅とは何か?」と問われ、以前より師に教えられた侭に「禅とは静慮である」と即座に応(いら)えたら、今度は「では、静慮とは何か?」と問われたので、「静かなる慮(おもんぱか)り」と答えた途端に"バシッ"とぶん殴られたそうです。

師は仰言いました。

「直ぐにそう言う事を応えるから、間違えるのだ」

…と。

「人生と言うのは、叡智が大事なんだ。右せんか左せんかと言う判断を誤ると人間は地獄へ堕ちて行く。

人間の心は無明、惑い、迷い、煩悩、其れ等に彩られて曇って仕舞うが為に誤った判断をする。

誤った判断をする事を《惑》と言う。

此の判断に因って間違った行動を取る。

此れを《業》と言う。

そして誤った結果に苦しむ。

此れを《惑業苦運動》と言う。

此のプロセスが、実は人間の愚かさである。


夕べに河原の芒(すすき)を見て"お化け"だと逃げ出す。慌てふためいて崖っ淵から引っ繰り返って、足の一本も折って仕舞った。

実は良く観ると、幽霊では無く、芒であった。

此れこそ誤った判断、自分が先入観で恐れたか、見間違えたのか…判断に大きなミスが有った為に、誤った行動を取り、誤った結果として苦痛を味わわなければ成らない。

つまり、惑業苦運動を繰り返し繰り返し、そして地獄へ行くんだ。

結果としての"苦"が次の"因"に成り、従って又"惑"を生んで行く。"苦"が又"苦"を呼ぶと言える訳だ。

こうして奈落の底である所謂"地底牢獄"と呼ばれる『地獄』に堕ち込んで行く…と言う事は、一番最初の判断にミスが有った訳だから、《正しい判断を捉える事》が大事と成るのが道理と成る。

其の《正しく捉える事を静慮》と言う。《禅》と言う。

《禅とは精神統一》。

そして此の『静慮こそ人生に執って極めて大切な事』と成って来るのだ」…と。


さて、此の『静慮』即ち"静かなる慮り"と言う答は、実は誤っていなかったにも拘わらず、何故I先生は叩かれなければ成らなかったのでしょうか。

其れは「静慮に至る迄の《慮り》を静めなければ成らんだろう」と師は言われたと言うのです。

「《静かなる慮り》、つまり正しい判断をする為には、慮りを静める事が最も大事と言う事に成る。そうして初めて《静かなる慮り》即ち《叡智》が出て来る。此の《静かなる慮り》こそ『佛の叡智·智慧』と言う訳だ。

即ち人間の世の中に執って、人生に執って一番大切なのは此の『叡智』である。

此の『叡智』を身に付ける事、此れを『禅』と言う。

此の『叡智』こそ"閃き"であり、此の《閃きこそ"直覚"》である。

此の《直覚が画く人生が『聖業楽運動』を生じて来る》のだ」と、師は仰ったのです。


正しい判断は軈て正しい行動を生み出し、其れに因って正しい結果が生まれて来るのです。

其の"正しい結果"を称して《楽》と言い、此の"楽"を更に称して《極楽》と言う訳です。

つまり、"地獄極楽"と言うも、全ては"行為行動"の結果に尽きると言う訳です。

"心の在り方"に因って人は地獄へも堕ちれば、極楽へも行くのです。其れは決して偶然にそう成る訳では無いのです。

極楽へ行くべくして行くだけです…と言う事は、極楽へ行く為には、人は何としても『聖業楽運動』へと人生の舵を切って行かねば成らないと言う事に成るのです。

ところが、ちょっと気が緩み、愛惜に流れる事に因って、つまり其れが雑念に因って曇って来ない様に為に、此の雑念を払拭する事に因り、"心明鏡の如し"と言う心境の中に立ち返る事で、初めて所謂"宇宙の構造"が…心の奥に埋蔵されている『叡智』が蘇って来るのです。

御釈迦様は、此の『叡智』こそ、人間の人生に於ける最も大事なものだと教えられた訳です。

つまり『涅槃寂静』こそ佛教の教えの核心と言う訳ですね。