我々には"この世"を生きて行く為の知識と言うものを、生まれて此の方、絶えず身に付け乍ら生きて来ました。勿論、生きる意欲と共に知識を学ぶ意欲が皆に具わって居るからなのです。生きる意欲なんて無い…と言い乍ら、無意識に呼吸しています。其れは、言葉とは裏腹に、生きんとする意欲の確固たる現れです。

人は意識しようと、意識すまいと誰もが生きる意欲を持ち、出来るなら今日より更に良く生き様とする意欲を持って居るものです。そして、其の為に自分に必要と思える知識を、少しでも多く得ようと願うものです。

高度な知識を得ようと研鑚しているのが私達の真の姿なのです。では、高度な知識とは何でしょうか。


本質が霊的人間で有る限り、霊的人間として学ぶべき高度な知識とは、《私自身を知る》事が最も重要で高度な知識と言う訳です。

生きている間も、死んでからも、つまり死後に生きる為にも、私自身を知る事で私はどう生きれば良いかが判る訳です。生まれて来た原因も、どうやって毎日を歩めば"私に相応しいのか"も、観えて来ますし、死ぬ時にも何を頼りに死ねば良いかも観えている事に成ろうと言うものです。


"私自身を知ろう"と言う事は、『私は何処から生まれて来て、此の世で何をして、死して何処へ去り行くのか』を知ろうとする事なのです。

実は、此れを《宗教心》と言うのです。

私の中に広がる宇宙を知ろうとする事なのです。此れ程高度な知識は無いのです。

人間は宇宙の一部なのです、何より宇宙が一つの命で出来ていると言う限り、私自身を知ろうとする事は、即ち『宇宙の構造』を知る事でも有る訳なのですから。

"宇宙の構造"を哲学の知識として身に付けるなら、西洋の哲学、東洋の哲学の中でも佛教に勝るものは無いと師匠は東洋人と言う贔屓目で観るのでは無く、悟られた眼を通して観られた立場に於いて仰有られています。


佛教とは御釈迦様の自内証で得られたものを哲学に纏めたものなのです。つまり、座禅の極みに於いて確信成された具体的内容を、座禅を知らない人達につまり具体的内容の片鱗すら味わえ無い人にも彷彿と出来る様に、味わえる様にと、理解可能な哲理に置き換えたもの、知識として共有出来る教えとして生み出されたものです。


"御釈迦様は本当は何を観たのかと言う具体的内容そのもの"を同じ様に知りたいと希(こいねが)う直近の弟子達は、"禅を組む"と言う御釈迦様が成されたの゙と全く同じ行を以て、御釈迦様の自内証そのものを得ようとした理由(わけ)です。

言わば、"御釈迦様の心"を捉え様としたので、此の流れの人達を『佛心宗』と言う訳です。


其れに対して、"御釈迦様の教え"としての哲理に重きを置いた人達の流れを『佛語宗』と呼ぶ訳です。

御釈迦様は万人が理解し良い様にと言う為に、『対機説法』と言う手法を取りました。

同じ内容を教えるの゙に、大学生が理解出来る様にだけ説いたのでは、小学生はチンプンカンプンで、直ぐに飽きて仕舞います。小学生には同じ内容の話でも、小学生に相応しい内容、小学生が理解し易い内容に改め無ければ成らなくなる訳です。

こうして、哲理の擬人化等も其処に起きて来る事に成ります。

商人に解り易い内容、無学の者でも付いて来れる話、異国の者でも理解し良い物語…と、次第に多くの宗派が出来て行ったと言うのが、佛語宗に成ります。

何時の間にか「内の宗派の教えが正しくて、あちらの教えは誤解している」なんて事に成っているのが現在の佛教界なのだとしたなら嘆かわしいですね。

まともな佛教の宗派ならどちらが上も下も無いです。どちらにも一長一短有りとは言えるかも知れません、"うち"だけが唯一正しい真実の教え…と言うのが無いだけです。

何故なら、哲学に置き換えた段階で既に"真実そのもの"から連(ず)れて仕舞うからです。

だから、"真実そのもの"を感得する為に佛心宗と言うのが成り立つ訳です。

即ち、『禅宗』が其れです。

だから、本来の禅宗とは、御釈迦様其のものを目指す為に存在しているのです。つまり、禅の目的は《悟り》以外には無い事に成ります…と言う事は、佛教の存在する目的も『悟り』の境涯を目指す事以外は無い理屈に成ります。

坊さんの目的も、葬式とか立派な寺院とか、御布施を如何に高いかを誇る事では無いのです。

如何に皆を目覚めさせ、悟りへの道を開いて遣れるかに命を賭ける事なのです。坊さんには遊んでいる暇なんか無いのです。其れ故、坊さんを聖職者と呼ぶのです。

本来はそうで無ければ、佛教の価値も坊さんの価値も無い訳です。


嘗て、御釈迦様が弟子に「師の教えは将来も続くでしょうか?」と問われた時に、次の様に応えられています…「我が教えは獅子身中の虫に因って滅ぶ」と。

《獅子身中の虫》とは、《堕落した坊主》を意味します。

理由も解らずに、地獄に堕ちている僧侶の想像以上に多い事実が御釈迦様の預言と符号する様で哀しく成ります…。


では、御釈迦様は何を教えたのか?

佛の教えの第一は《諸行無常》と言う事です。

世の中は、常に有為転変(ういてんぺん)していると言う訳です。

悟って観たら、此の世には一つとして留まって居るもの等は無い事、一つとして固定されたもの等無いと言う事を確認したのです。

世の中は常に変化し続けると言う…此れを《諸行無常》と言いました。

人は此の世に生まれた限りは、必ず死ななければ成りません。

手にした財産は何時かは自分の手の中から雲散霧消するのです…。因縁が尽きればどんなに大事なものでも消えるのです。

人間関係も因縁の有る間だけは集って居られるのです。因縁が変われば人間関係も変わるし、因縁が尽きれば、夫婦、恋人同士でも離れて行くのです。

何一つとして滞るもの等は無いのです。そして人も一刹那毎に老いて行き、"この世"から"あの世"へと軈て去って行くものなのです。


つまり、佛の教えの第一は…御釈迦様が悟られた第一は、世の中は常に流転している、全てが滞る事無く変化し続けていると言う事だった訳です。

宇宙の構造の第一は『諸行無常』だと言う事です。


第二は『諸法無我』であると。

師は仰言いました、「佛の教えを一言で言えば、《無我の教え》である」と言われました。

さて、"あなたの心"は何処に有るのでしょうか。幾ら胸を搔っ捌いても、腹を開いても、頭をかち割っても《心》は臓器の中にも外にも、之だと言うものなんかは何一つとして出ては来ませんね。

其れならば《心》なんて無いのか…ならば"あなたの意志"は何処から来ると言うのでしょうか。

記憶とか経験とか言うものから、《心》が判断して右するか左するかと言う閃きを出すと言う其の心は何処に有ると言うのか…?

御釈迦様は、此の"己(おのれ)"と言うもの…其の《心》は何処に在るかと言う為に、先ず人間の精神分析から始めた訳です。

其れが『唯識論』です。

人間は五感つまり眼·耳·鼻·舌·身に於いて成り立つと観た訳です。

此の五感と言う感性に於いて得た情報…例えば、"空は青いと意識付ける所"を『六識』と呼び、《五感六識》に拠って人間は活動していると言う訳です。

然し、此の五感六識と言うのは肉体が滅んだら…つまり死んだら、肉体と共に吹き飛んで仕舞います。

五感で感じた美醜と言うものも、美味しいとか不味いも肉体が有ればこそなのですし、身体が疲れたとか、眠いなんて事も実は肉体が有ってこそ感じていたものなのだから、実は全く無い世界に成るのです。肉体が無い世界とはそう言う世界に成る訳です。霊界とは肉体の無い世界なのです。

では、何が残るかと言うと、《観念》のみが在る訳です。理解し良い様に、其の世界を《心の世界》と置き換えても良いですが…其の《心》は何処から来るかと言うと、《己(おのれ)》から生じます、つまり、『自我』です。

確かに「"私が此処に在りと言う心"が私と言う存在を証明している」と言う事なのですが、《私の心》は何処にも発見出来無い訳です…と言う事は"私"であると思い込んでいるだけでは無いだろうか…《観念の世界》に居る訳ですから。

其の観念の世界で「私はAである」「私はBである」と思い込んでいる世界が心の何処かに在る事に成ります。其れを仮に『七識』と言う訳です。

つまり、"自我像"を錯覚している場所を『七識』と言う訳です。


理屈では無く、事実として所謂『心の構造』と言うのは其の様に出来ていると言う事を、御釈迦様は悟りの果てに確認したと言う訳です。

一刹那と言う…つまり六万七千五百分の一秒を感知する悟りの世界の境涯から心の構造を観察すると、そうであると言う訳です。

我々が自我と思っているものは、単なる幻影、幻にしか過ぎないと言うのです。幻ではあるけれど存在しているもの…其れが自我なのですね。

判った様で判らん訳ですが、若し御釈迦様同様一刹那を感知する迄、精神統一が深まれば誰にでも容易に判る事なのです。


そして、其の七識の奥に更に拡がって居るのが、私達が生まれて此の方、両親や先生から与えられた教育の成果や、自分が体験した様々な経験·知識だけで無く、自分が生まれ変わり死に変わりして来た所のあらゆる全ての経験識が、自分の業識…カルマとして蓄えられている『ハ識』が有ると言う事が一刹那を感知する眼に映ると言う訳です。

此の世界を『阿頼耶識(あらやしき)』と呼びます。


生きている人間は五感で得た情報を六識に於いて了別する訳ですが、其の際に《己》と言うものを錯覚する世界が七識であるが、七識自体が幻の世界であると言う訳です。実は、阿頼耶識(ハ識)と言う"業"の集合体…過去世から連綿として積み重なった《業識の集合体》こそが所謂了別する個々の判断材料と成り個別化して表に顕れる際に、個別化する事を七識であると錯覚する訳です。其の錯覚識を《己れの心》と思い込む事が、同時に"他の心と別もの"と切り離して仕舞う訳ですが、"心は何処に在りや"と成ると、実はハ識の集合体である世界が操って居る事に成る訳です…此れを味わえるでしょうか。

"私の源は全ての源に在る"と言う事に成るのですが。


此のハ識の世界総てを雑音として、余計なものとして振り払う事を『ハ識断定(だんじょう)』と言う訳です。

七識と言う幻の己れを払うだけで無く、源である世界迄をも捨てろと言うのですから…勿論、意識の中での事ですよ、当然ですが…此れは《心の自殺》に当たる事に成ります。

実は、"禅は心の自殺"を狙って居るのです。


過去の経験識が如何に有ろうと、其れをもスッパリと切り捨てる訳です。主護霊からの経験だろうと、つまり、主護霊から届けられた念だろうと、先祖から届けられた念だろうと、師匠だろうと何だろうと雑音として切り捨てない限り、ハ識の更に奥に在る世界には至らないからです。

其処が実は九識の世界…所謂『悟りの世界』であると御釈迦様は禅定により、つまり内観する事に因り至ったと言う事なのです。


『悟りの世界』とは、言う迄も無く、佛教に於いては『佛の世界』であり、神道に於いては『神の世界』です。其れが禅の究極の目標であると言う訳です。


御釈迦様は禅と言う手段を以て悟りへ至る道を明らめた訳ですが、其の真理を皆に遍(あまね)く伝え残す為に弟子を中心として、対機説法と言う手法で拡げたのです。

其れは、因果は巡ると言う事でした。

つまり、"因"が有って、"縁"に触れて結果が出て来る訳だから、原因の無い結果は一つも無いと仰言ったのです。

因果が巡る…と言う事は、例えば人が何かの講演会に集って聴いていたとしたら、其の事自体が一つの結果なのですから…とすれば、其の原因は誰かに誘われて…とか、一度話を聞いて観ようと言う興味半分とか、偶然其の瞬間に時間が空いたから等と色々な原因が有るとしても、其処へ集うと言う因縁を持って居なければ、実は集い得無いのです。

お解りでしょうか。

つまり、過去に何等かの原因…種蒔きが有ったと言う事なのです。

其れが縁に因って講演会場に集うと言う結果を生み出していたのです。そして、其処に集うた事を次なる"因"として、新たな"縁"を得て"果"と成り、其の"果"が同時に新たな"因"と成り…こうして、途切れる事無く続いて行くのです。

霊的人間である私達を観れば、当然、"この世"から"あの世"へも因縁果因縁果因縁果…と続いて行く事に成ります。

此れを『縁起観』と言う訳です。

当然、振り返れば、私の生まれる前から因縁果因縁果…と繫がって来たと言うのが道理です。

だから私を生んだのが、前世の私と言う事に成る訳です。其れを"主護霊"と命名したまでの事です。


此の様に、人は結果のみに生きている訳では無いのです。必ず結果は新たな原因と成るのです。

其れで御釈迦様は、『有るのは因縁だけである。縁起が根底に有り、因縁のみが流転している故に諸法無我と言う』と説いたのです。

つまり、"己れなんて何処にも存在しない。有るのは因縁のみである"と言う訳ですね。

佛教とはそう言う教えを説いているのであって、葬式とかは一切関係が無いものだったのです。

死んだ人を救う教えでは無く、未来を生きて行く為の教えだったのです。


御釈迦様は一度も葬式をしてません…。