『命』とは、本来《無限の叡智と無限のエネルギーを持っている理体》と言う事なのです。其れを佛教では『空』とか『法』とかと言う訳ですが。其の命が軈て躍動して宇宙と成り、霊性を帯びて神と成り軈て因縁の違いから星と成り山と成り川と成り花と成り人と成った…と、つまり宇宙の全てのものは"形の無いエネルギー"なのですね。


言わば宇宙は《生きている無限のエネルギー》で出来ていると言う事です。

つまり、『思い』…『想念』と言うのも一種のエネルギーですから、次元が違う世界では想念も具体的形を持っていても不思議は無いのです…『霊界』とはそんな世界です。


《霊界は想念の世界》です、《想念が心の階層を築いている》とも言えます。

人間は死後は冥界を歩み、幽界を行脚して幽界七層の何れかに所属し乍ら軈て、夫々の時が至る事から幽体を脱ぎ捨てて、より長い旅の待つ霊界へと進んで行きます。

霊界も同じく七層に拠って築かれていますが、各層の繋がり方は、くっきりと区別されている訳では無く、徐々に光が射し込んで夜が朝と成り何時しか午前から午後へと変化して行く様に、心の中の想念と言うものも線引されて区分し得ないのです。だから、霊界と言うのは構造と言う点では、はっきりしているけれど、今迄夢幻界に居たと思っていたの゙に、何時の間にか色彩界に居た…と、"心の思い"の僅かな違いで上昇もするし落下もすると言う…悪を思えば即目に見える形で環境も何もかも変わると言うのが"想念が生きて活動する世界"なのです。

現界所謂我々の居る物質世界では、見た目にそんな明確な変化が起こらない為に、つまり、内実は環境も友人関係も何もかも変化して居るの゙に、"この世"は時間と空間と言う制約を受けて、変化には時間を要する為に時間の経過を経乍ら目に現れて来るので、変化が起こっている事に気が付かないのです。気付いた時には手遅れで、どっぷりと悪色に染まって居る訳です。

其処が霊界と現界の違いなのです。

霊界は"思うと同時に変化する"のです。

"小さな子供は泣いたカラスがもう笑う"と言う様に、"コロコロと変わるので心(こころ)と言う"様に、アッと言う間に変化するのも人の想念ですから、夢幻界と言う處も案外落ち着きの無い處らしいです。自分の想念が直ぐ具体化する世界其のものが夢幻界ですから。自分の想念通りの家や家具、食べ物に囲まれても、直ぐに消えたり、間取りが変化したり…兎に角、落ち着かないと聞いた事が有ります。

生きていた時に、じっくりと一つの事に集中する事をして来なかったのですね。或いは、付和雷同し易い性格だったのかも知れません…お解りでしょうか、結局の所、霊界が想念の世界である限り、己れの想念が生前同様に霊界迄も規制して行くと言う事です。

どんなに願っても"あなた"は"あなた"として霊界で努力して高い世界を目指さねば成らないのです。

霊界とはそう言う世界でしか無いのです。現界よりも或る意味では大変シビアな世界だと言う事を覚悟して置かねば成らないのですね。

だから、適うなら、生きている間にきっちりと思いを固めて頂きたい訳です。

つまり、自分の人生観とか哲学と言う、考え方をしっかりと持った自分で在って欲しいのです。

少なくとも、其の訓練はして置くべきです。

其の訓練として…最初は簡単な事から始めれば良いのです。

例えば、御自分を…是迄の活きて来られた御自分を、静かに省みる時間を持って頂きたい訳です。

本当は座禅の一つでも遣れば良い訳ですが、座禅と言うのは真面目に取り組むと結構大変なものですし、やはり環境が整わないと、只の居眠り座禅に成って仕舞い逆効果に成るばかりですから…。

何時でも何処でも…とは行かないです。

コーヒーを一人静かに飲む時とか、浴槽に浸かるとか、リラックスする静かなひとときを思いを馳せる時間にするのも良いですね。

実は、こんな"ひととき"…リラックスした、何も考え無いで、頭も心も空っぽに成る瞬間を待っているのが、"あなた"の主護霊でもあるのです。

《無死の知らせ》が一番すんなりと"あなた"に届く瞬間だからです。"あなた"自身も其の《無死の知らせ》を最も受け取り易い瞬間でもあるのです。

何かに心が囚われて居る時には《無死の知らせ》が心がブロックされた様に成り弾き返されるのです。

だから常に主護霊は霊波を注いでいるの゙に、殆どが弾かれたり、届いたとしても歪んで仕舞い間違った事と成って閃くと言う結果に成る訳です。


主護霊からの霊波…無死の知らせ…を意識して常に受ける癖が付けば其れが、絶対に霊界に帰ってからの役に立つ事に成るし、翻って"この世"を有意義に生きる為の道標…灯りにも成ると言える訳です。


嘗て御釈迦様が死の淵に在った時に、泣いて縋る弟子が「御釈迦様が居なく成られたなら、私達弟子は何を頼りに生きて行けば良いのですか…」と言うと、御釈迦様は「自灯明」と応えられたと言います。

同じ事を法句経には『己こそ己の寄る辺、己を措きて誰に寄る辺そ、良く整えし己こそ真得難き寄る辺をぞ得ん』とも書いて有ります。

此の"自灯明"を誤解して、"素直な自分、自然の儘の自分、生まれた儘の素の自分、自分らしい自分で良い"なんて解釈する事から誤った道に入って行くのです。

地獄行き必定の教えに転化して仕舞う訳です。

御釈迦様は決して「其の儘の自然体の自分で良いよ」とは言って無いのです。

《自灯明》で言う、所謂"自分の持つ灯(光)で照らし道標と成せ"と言う"自分"とは、"良く整えし自分"を指しているのです。『本来の自分』に立ち帰る事なのです。

"自然の儘の自分"に非ずして"本来の自分"なのです。

"良く整えし"とは、座禅を組み、精神統一を成し、内観を深め、我欲を去り、其の果てには《空》"を体感し…と言う事は、悟りを開きし己れと成り、其の悟りし眼で捉えたものの観方を標と成せと言っているのです。

本来は、究極的にはそう言う意味なのですが、現実問題としては、悟ると言う事自体は、不可能に近い訳です。


現実的には、心を鎮め、我欲を忘れ、静かなる慮(おもんぱか)りを得る事なのです。即ち、主護霊からの無死の知らせを受け従う事です。

主護霊とは《前世の自分》ですから、即ち此れが《本来の自分》と言う訳です。

主護霊の指図の儘に動くと言う事は、"私"が主護霊と文字通り一体と成るに等しい訳です。

そう言う時を《主護霊が前面に顕れ私が主護霊と成る》時と言うのです。

つまり、"主護霊の指し示す道標に従い生きる事が『自灯明』"の意味する所と成る訳です。

《本来の自分が持つ灯を頼りとせよ》と御釈迦様は教えておられたのです。

"只、自然な儘に自分本位に生きなさい"…等と御釈迦様が言う訳無いのです。


実は、禅を遣って行くと、或る段階で誰もが主護霊と出逢う時が来るのですが、其処に留まって仕舞うと、所謂神や佛に出逢う境涯へは決して辿り着けないと教えられました。

然し、主護霊迄辿り着く事すら並大抵の事では有りません…せめて主護霊からの無死の知らせにだけは常にアンテナを向けて居て欲しいと思うのです。

『この世』を光に導かれ歩む為にも、そして『あの世』も光に導かれ高き界層に赴く為にも、あなたの主護霊と感応道交する事を心掛けて欲しいです。