霊界は一旦死んで入り込んだ限りは、修正の出来無い、確定した世界であり、覚悟を以て歩み行かねば成らぬ世界なのです。
修正が出来るのは生きている此の僅かな数十年の間しか有りません。

子供の時分から…と言うのは理想ではあるけれど、現実問題としては、成人して多種多様な思いの果てに、霊界の存在如何と言う事に真面目に向き合えるものであろうと思いますので、実質二十年か三十年しか無いと言うのが本当の所かと思います。

自分の生き方、思想、欲望の抑制…と言うものの観方を変え、然も、眼に見えない世界に重点を置いて生活を根本的に見直すのは至難の業(わざ)です。

結局、大多数の人達と同様に、現在の延長の侭の"あなた"として死んで行くのです…「何とか成るさ。神様が居れば、きっと私は信心深いから天国に行けるに決まっている…」と、自分を誤魔化し乍ら死んで行くのです。

だから確定した世界に覚悟して赴くと言う訳です。

所詮、どんなに言い繕っても、人の所為にしようとも最後の最後に「そうしよう」と決めるのは、どんな時でも、どんな問題でも、《其の様にすると決めるのは最後は自分自身》なのです。だから、自業自得と言う事が成立するのです。否ならしなければ良いのです。

此れは大事な事です。

"あなた"の人生の脚本家は必ず"あなた自身"以外に無いと言う事を忘れないでください。


霊界が確定し、覚悟した世界である限り『霊学』を知ると言う事に因って、《反省心》が湧く事が非常に早く成ると言えます。

其の為にも、霊界で堕落して行く者と、向上して行く者とでは何処が違って来るのか…と言う事なのですが、其の為にも"私達日本人が死んでからどの様なコースを歩んで行くのか"を知る事が大事に成って来る訳です。


何故、此処で態々(わざわざ)"私達日本人"と規定したかと言うと、実は日本人の行く霊界と、例えばアメリカ人の帰る霊界、北欧の人達の霊界、砂漠の民が赴く霊界…は、微妙に異なるのです。国や民族が違うと霊界其のものも違って来るのです。

皆んな先祖の霊が住む霊界に帰って行く訳です。

だから、外国の霊界通信と言われる有名な書物を幾ら紐解いても霊界の実在する事は証明出来ても、現実に"あなた"が行くであろう世界の道標には残念乍ら成らないと言う事です。

況して、キリスト教…つまりエホバの大神様の霊界からの通信を読んでも、日本人の帰るべき霊界の情報は得られないと言う事に成ります。

夫々の国には、其の国の国津神毎に子孫を包含する霊界を形成して居るのです。

外国の国津神々も天津神に拠って統率されている訳です。日本の国津神々の上に天津神々が御在すの゙と構図は変わりません。

外国神霊…つまり此等の国津神々を統率している天津神が、実は月読之大神様なのです。

其れで日本神話では名前程度しか出て来ない神様なのですね。

外国に行く人とか、外国で仕事をする人は月読之大神様をお祀りしている神社に御加護をお願いしてから、外国に行くと良いです…帰ったら非礼に成らない様に覆奏(ふくそう)する事は忘れない事ですが。


尤も、日本の霊界の事は、佛教的視点に立った『往生要集』を除き、余り系統立てられた霊界通信が皆無に等しい為に…断片的に霊界を描いた物は散見されますが、外国の霊界通信にばかり頼らざる得なかった訳ですが…。

近年で日本の霊界を描写した中では最高と思われているものに『異境備忘録』と言う我等の白日様こと宮地水位先生が生前著された書物が有りますが、「死んで霊界に行って観たら、大分間違っておった」と言われる程、実際の霊界、殊に神界に就いては誤りが有ったと伺っております。


兎に角、師の直毘を通しI先生が観られ、白日様も確認された日本の霊界と言うのは、先ず幽人即ち幽界の人間が『大成境(たいせいきょう)』迄行ったとしますと…大成境と言うのは幽界の一番頂上に当たる處に在りますから、此れは確率論だそうですが、大成境へ行った人は先ず霊界の『地獄』へ堕ちる事は少ないと言います。

では、其の人達は霊界のどの辺りを彷徨(うろつ)く事に成るかと言うと、大体が『夢幻界』に落ち着く事に成る様です。

要するに『地獄』から脱出出来た人達と同じ、地獄の直ぐ上の界層ですから、心に地獄の思想が芽生えれば、直ぐ地獄に落ちると言う危うい世界でもありますので、夢幻界だからと言って安心ばかりはして要られませんね。やはり早く此処も抜け出す為の向上心を絶やさない事です。

『夢幻界』と共に、もう少し心が高まって居る人達は『光焔界(こうえんかい)』と言う夢幻界の上の界層へと行く様です。

此等の界層の何れかに幽界の大成境を経由した人が行く霊界だと言われています。


以前も述べました様に、幽界の『大成境』と言うのは、《反省の世界》です。

死んでも"私"と言う存在は霊界と言う世界にやはり存続し続け、其処の世界の遥か高みには神々も存在すると言う訳ですから…。

つまり、其処に住む為にはより高い界層に進む事が要求されて来ると言う訳です。

其れには、精神の向上が必要に成って来る訳です。

確実に《精神統一》を要すると言う事です。

其れに連れて、天命を知るとか、霊統を知るとか非常に高度なものが蘇って来ると、先ず以て地獄へ堕ちると言う事は無い訳です。


では、中々其処迄の心境に達し得ない…言わば、堕落者達はどうなるのか…。

《堕落者》は、高度なもの…例えば"神々の実在"とか"高級霊界"なんて事を夢見る事も無いし、道を求める事も、其の為には寸暇を惜しまず努力するなんて事も無い訳ですから、必然的に霊界の落ち着く先は『地獄界』と言う事に成ります。

百八十一段階有ると言う地獄の何れか相応しい處へと堕ちる事に成ります。

そんな地獄の住人達はどうしたら地獄界を脱出して高い世界に行けるのか…?


其れには地獄界で最も高い場所に在る、『地獄の学校』を経て脱出する事に成ります。

嘗てI先生は師の命を受けての地獄の学校を一通り見聞した記録も残って居て、其の一部は僕のブログでも紹介していますが、地獄の学校を経て来た霊人は『夢幻界』·『色彩界』·『光焔界』迄は保証されていると言われています。


ですから、"幽界は全員が一端は通過する"と言う訳ですが、霊界構造を知り…観光気分と言うのは語弊が有りますが、「ああ、本当なんだなぁ」と言う感じで通過して行く人と、"堕落"した侭で死んで行く人とでは何もかも行き方は違って来るのです。


人は死ねば等しく皆肉体を脱ぎ捨てて、幽体の体を纏った幽人として冥府の瓦礫の原に目覚める迄は同じなのですが、生前から精神統一を心掛けて居たとか、己れの生き方を大切にして居たとか、反省心が豊かで有ったとか、何より神々を自分の都合で無く知り、霊界構造を知る努力をし乍ら生きて来て、すんなりと大成境迄早く行く人と、堕落のコースに乗って仕舞った人とでは、大変な違いに成って仕舞うのです。

地獄に堕ちたら最後、何としても狭き門である地獄の学校を通過しない限り地獄からは脱け出す事は出来無いと言う訳です。

実は、幽界の大成境にも学校が有ると言います。

主に"死んだ事を納得させる"為の学校らしいです。


お解り頂けるでしょうか…如何に霊界構造と言うものを知っている事が自分自身の死後の救いに成るのかと言う事を…但し、誤った霊界構造では元も子も無い訳ですが。


自分の眼をしっかりと開き真贋を見抜ける様にしなければ成りません。

己れの眼の奥行きが深まれば、観える世界、味わえる世界も其れに連れて深まります。

此の事を忘れないでください。