霊界の実在する事を知って初めて理解出来る事…

つまり、人間は本質に於いて《霊人》であると言う事が理解され、宇宙を生きる生命の連なりの重要なピースとして生きる己れと知る事で、初めて得心し得るのですが…。


其れは、《何故、私は生まれて来たのか?》と言う事に外成りません。


古事記·日本書紀の遙か以前の古(いにしえ)の日本人達は殆どの人が、自由に霊人達(神々を始めと言うした人倫秩序の上位に当たる方々)の姿が見え、"会話"も可能であったと伺っております。

人が増えるに合わせる様に、次第に我儘と成り、且つ自我を夫々が通す様に成ると、其れに連れて神々との繋がりも希薄と移ろい、軈て神々の本質すら忘れ去られ、神々の実在するも現実では無いかの如く成り、眼に映る事象のみに重きを置く様に成って仕舞ったのですね…。

其れでも、上宮太子の時代辺り迄は神々の威光は未だ未だ消えては居なかったみたいです。

太子の十七条憲法の一つ『神職憲法』の中に、神主は年の始まりには神社に神が御在しますか否かを神に問わねば成らない…と言う事が明記されている事からも其れは明らかです。

又、現在では神社の拝殿の外に垂れ下がっている鈴は、実は千六百年程昔は拝殿の中に振ら下がっていたと言います。

現在では人間が"呼び鈴"宜しくガシャガシャと鳴らす体に成り下がっています。

あれ、本当は人間が鳴らす鈴なんかじゃ無かったのです。神社に御在します神か神の名代の御眷属の霊人が打ち鳴らす鈴であった様です。

願いを聞き届けた合図なのかどうかは知りませんが、尋ねた人に応答して鳴らされた様です…が、人の心が神々から離れるに従い徐々に鈴の音が拝殿の中から聞こえなく成り、終(つい)に何時迄待っても鳴らなく成ったので、人間側からの"訪いました"の合図として已む無く人が掻き鳴らす様に変化したと言うのがどうやら真相の様です。


霊は実在しているのです。

そして、霊は分霊を発するのです。

又、霊は界層毎に集団を組んで生活していると言うのです。

更に、霊は、幽界に居る幽体を纏った霊人と、霊体の侭の霊人とに別れていると言うのです。つまり、幽界と霊界が在ると言う訳です。

こんな事が有りました。

人は死ぬと肉体から脱け出した幽体を纏った霊人は肉体の無い生活に馴染む為に死後暫くの間は昏々(こんこん)と眠って仕舞うのですが、幽体の方は眠って居るのに、中の霊体の方も共に眠って居るとは限らないのです…どうも、其の人が霊界構造と言うものを生前から熟知していた場合にこう言う事が起きる様な気がするのですが、何故なら、師の御弟子さんでしたから霊界構造…幽体の中に霊体が在る事を良く知っている方が死後、未だ冥府で眠って居る最中に、斎場の席で生前お世話に成った御礼の御挨拶がしたいと言うので、何も知らずに眠って居る幽体を冥府に残して、霊体だけが現れて生前座っていらっしゃった所定の席に座って、御神霊のお話を聞かれたと言う事が有ったのです。


普通ならば、幽界を生きているとの錯覚で彷徨う所ですが、間違い無く其の方は「ああ、此れが幽界ね…」と幽体の中から観光気分で眺めてさっさと霊界に行くだろうと思ったものです。

幽界で何年も何十年も苦労するのは、現界では肉体の時は肉体が全てと思う様に、幽界で目覚めてからは幽体が全てと、其の時々の体…感じる体のみに執着し、拘り続けるからです。

つまり、自分の本質が『霊』である事を知らないからです。頭の中だけで知っているのは、単に知識として知っていると言うだけで、本当に知っているとは言わないのです。

《全身で味わう》事が出来て初めて本当に知っていると言うのです。体感するとか、実感するとか言う事が《味わう》と言う事です。そう成って初めて知っていると言える訳です。


幽界で苦しんだ人達が軈て、其処から脱け出せて霊界へ行っても、霊界は地獄で少なくとも四千年もの間は浸潤する事に成る、若し相変わらず「あぁ、苦しい…痛い…私が何をしたって言うんだ!私が悪い訳じゃ無いのに…」なんて事ばかりを相も変わらず考えて居たら、四千年じゃあ済まない事に成る訳ですが…答は自分で見付ける以外無いのです。獄卒は心を込めて虐め抜くだけで、答のヒント一つ与えちゃくれません。

やっとの思いで脱出すれば、次の夢幻界で又四千年の歳月を経なけりゃ成りません。

そして色彩界で又四千年…都合七つの層を通過するのに、普通で二万八千年。其の間に大雑把に観て三百五十回程地上に生まれ変わり死に変わりを続けると言う、此の魂の遍歴が私達の本当の人生行路なのです。

其れ位"魂にはピンからキリ迄有る"と言う訳です。勿論、地上に其れ丈多彩な霊界から再生して来て居るのですから、地上こそ魂の玉石混淆の坩堝(るつぼ)なのですね。


「私は何で生まれて来たのか、他の人達は何で生まれて来たのだろう?」

此れは霊界の実在、霊の存在の肯定から初めて推測し得る分野の問題である事が少し得心出来たのでは無いでしょうか。

霊界構造を知ると、人が今生に生まれた原因が良く理解出来るのです。

生まれて来た理由は大きく三つ有ると言う事です。三つの原因が更に複雑に絡まり合って一人の生まれる多重原因と成って居るとも言えますね。

人の性格は其の人の主護霊因縁と祖霊因縁との兼ね合いの元で成立して来るのに似ています。

人間は実に複雑なんです。


さて、其の第一は、『"この世"に未だ果たし得なかった望み、願いを懸けて因縁を果たす為に生まれ変わって来た霊』が、やはり大勢居るのです。

人間は紛れも無く《霊的人間》と言う本質を持っています。言わば、肉体と言う衣を纏った"幽霊"が泣いたり笑ったりしている訳です。

所詮、人間と霊とは切り離しては存在し得ないのです。人間の中に幽霊が居るのです。

そして、其の幽霊の中に《本体》と言われる《神の体》が宿って居るのです。

我々の奥に既に神が御在しますと言うに等しい訳です。

好く耳にする"即身成佛"と言うのは、表現を神道的に変えれば"神との感応"と言う事なのです…即ち、"私"の心の奥に存在召される神が表に顕れる事を以て、つまり"私そのもの"が"神の体"と成る事を以て《即身成佛》と言うのです…"私"の中には既に四つの霊が潜んで居ると言う訳です。


物質世界に於いて頭脳を使い…記憶とか体験と言うものの堆積から判断し、了別している現界の"私"と同時に、幽霊としての"私"が肉体の奥に同居している訳です。更に同時に主護霊としての"私"も同居しているのです。主護霊は前世の"私"ですから…と言う事は主護霊の主護霊である主護神も、主護神の主護神も奥の奥には同居している理屈に成ります…其れが本体の世界に通じる訳ですから、当然、其処に霊統主が御在します…と、成ります…。

お解りでしょうか。

だから、《理論的には"あなた"が霊統主なのです》…此の繋がりの理屈がお解り頂けると嬉しいのですが…。

《霊としての私が生まれ変わりをする理由》の究極的関連性に成る訳です。


話を元に戻します…

此の世に因縁を果たしに再生して来た霊に執っては因縁を果たす事が生まれて来た理由に成るのだから、其処に善悪の入り込む要素は無いと言う事に成ります。

"満たされぬ我が思い""消すに消されぬ我が願い"を果たす為に生まれた限り、其の想いを果たしたら其れで大成功なのです。願いは満たされるのです。

其処には良いも悪いも、其れこそ道徳的に許されるかどうかすら関係無いのです。

だから例えば、仇を、人を刺し殺して遣りたいとの願いで来た者は、其の生まれ変わりと巡り遭えば、今生で例え名も知らぬ相手でも…前世の霊同士は仇である事を知っているから…刺し殺してあの世に帰るのです。"この世"的には、"理由無き殺人""魔が差したか、通り魔殺人"としか答える術は無いのです…。


さて、霊は常に上昇しようとして居ますから、其の為には、我が身を高め無ければ成りませんから、各界層での行為は全てが一種の修行である訳です。つまり、地上を生きる私達も霊的視点で眺めれば、間違い無く修行をしているのです。

地上に物見遊山で生まれて来た愚か者等一人として本来は居ないのです。

この世を生きるとは、文字通り全てが魂の修行なのです。そして、死んだら霊界で又修行を続けると言う訳です。

霊界で修行をし乍らも、尚且つ魂が未熟…と主護霊が判断すると、もう一度修行の遣り直しの為に地上に主護霊が叩き落とすのです。

処罰の意味も含めて"この世"へと放り投げると言うのも霊の世界では普通だと言う訳です。

其れは神々の世界でも起こる事なのです。神々の世界も霊の世界の一部ですから…。

ですから、二番目は『懲罰の意味を含め、もう一度地上の修行を遣り直す為に生まれ変わって来た霊』がやはり居ると言う訳です。


三番目に、『"この世"で修行を重ね、徐々に徐々に、生まれ変わる度に高まって行く霊』が居ます。例えば、《悟り》を得たいと言う願い…誰かの存在とは関係無く、自らの魂の向上だけを只管追い求める人です。

《道》を求めても七生掛かると言うのが悟りへ至る道と言われます。良き師匠に出逢えても四生掛かると言う道を生まれ変わり死に変わりし乍ら、生まれ変わる度に同じ願いを持って、主護霊と共に歩む、所謂、真の宗教家達ですね。


大体、此の三通りが生まれ変わりの大きな原因と成って私達は此の世界に遣って来た様です、勿論繰り返しますが、三通りの複合が有りますが、何れにしろ"この世"は玉石混淆なのです。

そして、皆がより高き御魂と成るべく高い世界、高い霊界を求めて生き変わり死に変わりしているので、だから"私達"の事を霊的には『昇り魂(のぼりだま)』と呼ぶのです。