"人の穢れの起こりは神に起因する"と言う。

其れは日本の神話と称する古い物語として『古事記』の中にも記載されています。

其れは伊邪那岐之大神と伊邪那美之大神の物語です。

此の二柱の神は《国生み》と言う一大事業を国常立之大神から引継いで完遂させる為に生まれた夫婦(めおと)神です。此処が大事な点なのです。御二人が夫婦で在られた点です。

御二人は天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神、宇麻志阿斯訶備比古遅神、天之常立神等の『別天津神(ことあまつかみ)』から生み出(な)され給うた訳です。

ところが、志半ばで妻神が身罷(みまか)られて仕舞われる事に成ります。

古事記には"国半ばにして伊邪那美之大神が亡くなり給うたによって、伊邪那岐之大神がその後を追って黄泉の国へ行きませる"と書かれています。

そして、黄泉の国より伊邪那美之大神を始めとした鬼達に追い掛けられ、這々の体で伊邪那岐之大神が逃げ帰られた…と言う事に物語では成っています。


神と雖も、《愛惜の念》を起こし給うた所には『穢れ』と言うものが生じて来るのですね。

では、『穢れ』とは何か?

『穢れ』とは《気が枯れる》と言う事なのです…つまり、《生命力が鈍る》と言う事を意味しているのです。

では、『穢れ』とはどの様な時に起こって来るものなのでしょう?

其れは『愛惜の念が生じた所より始まるもの』である事を知って置かねば成らないのです。


伊邪那岐之大神が"自然の流れ、随神(かみながら)の間に間に戻られる時"に、フッと湧き上がった《愛惜の念》つまり亡くなって仕舞われた愛しい妻を追い求める思いと言う事なのです。

霊界の実在を信じられない人には、之こそ信じ難い事なのでしょうが、現実には此の断ち切れない喪失感、追うても詮無(せんな)い未練に縋る事が、惹(ひ)いては己れの生命力の活動を阻む結果を招く事に成るのです。

《気が枯れる》つまり"穢れる"と言う事です。

其の『穢れ』を祓い成せし所より『天照坐大神(天照大神)』の誕生を…と言う事に成るのですが、此の《穢れを祓う》と言う所が、実は、神話の中でも特に心しなければ成らない重要な部分なのです。

此れ迄の学者·研究者·神主は皆此処を簡単にスルーしていた様なのですが、《我等の祈りの対象と成るべき神々の本質は如何に有るべきか》…と言う、極めて大切な意義が此処に有るのです。

"唯の神"から所謂、"正神"に至る過程が秘められているのです。


実に大切な所です。

"生まれた儘の姿"では御用を成されないのです。

"何が為に神が穢れ給うたのであろうか"?

実は"穢れ給う"所にこそ、神が我々人との繫がりを生じ得たと言えるのだ…と、御神霊は仰有られています。

人間と言うものは、《穢れる事無くして"この世"を渡っては行けない》と言うのが、哀しいけれど紛れも無い真実なのですね。

人が此の世を生きると言う事は、気が枯れる事を避けては通れないのです。つまり穢れざるを得ないと言う訳ですね。

穢れを知らぬ人なんか居ないのです。生命力の枯渇する様な出合いに日々苛まされ乍ら人は生きねば成らないのです。迷いと焦燥に惑い、この世から消えて行かねば成らぬ愛する家族に嘆き悲しみ、我が思いの満たされぬ事を悔やみ、地団駄を踏まねば成らないのです。

人は穢れ無くして生きられない…現界とは、人間界とは半苦半楽の世界だからです。

我々が置かれる苦しみ、痛み、悲しみ、無力感、焦燥感…此れは経験しない限り、其の深い哀しみ迄は量り知る術は無いでしょう…。


神が神の儘で居られる神が尊いのでは無いのです。

神が一度(ひとた)び穢れて、其の"『穢れ』を祓い成せし所より生ずるが故に尊い"のです。

罪の味を知らずして、穢れの味を知らずして、生まれた儘の姿の延長であったならば、其の神は人の世界とは無縁の神でしか無いと言う事です。

痛みが分かるから救え、罪の恐ろしさが分かるから助ける事も出来るのです。食事をした経験が無ければ空腹の辛さ惨めさは実感する事は出来無いのです。

貧乏の哀しみを知る故に其の哀しみに寄り添えるのです。

実は"『宗教』の尊さは此処に有る"のです。


一度人間らしい愛惜の念を生じ乍ら、其の愛惜に因って穢れたものを祓い成せる所にこそ、救いの神·赦しの神としての神の尊さも有るのです。

此れを宗教的言い方に置き換えて表現すれば、愛惜の念より生じる"穢れる事を覚悟する事"が『発心』と言い、そうして『発心』するが故に、穢れを祓おうとする『修証』が其処に生まれる訳です。

『修証』とは何か?

ダイヤモンドと雖も磨かなければ光は生じ無い様に、在りの儘、随神の儘に帰ろうとする事が即ち"修証"と言う訳です。


私達は"素直で穢れ無き在りの儘の心"でいられれば言う迄も無い訳ですが…若し愛惜の念を生じ無くても、"空"で在ろうとする、白木の儘、自然の儘で在ろうとするには大変な努力を要するものです。

無心の儘で居ようとする事には中々並外れた努力が必要と成って来ます…即ち、此れが『修証』と言う訳です。

ですから『修証』とは…と言えば、其れは《己れに与わっている、己れの持てる儘の姿を即ちダイヤモンドである本来の己れの姿を維持しようと励む事》であるのです。

放って置けば塵が何時の間にか溜まって仕舞うけれど、采祓(さいはら)いを掛けている間だけは塵が溜まらないので、采祓いを掛けて元の"気"に…無心の儘、空白の儘の姿を保つ事が『修証』なのです。

《行をする》と言うのは修証の為に行う成す事なのですね。


『発心』·『修証』と動く訳です。

御神霊は次の様に申されました…

「『修証』と言う事は"元の姿を維持する事"なのだから、此れ即ち『菩提』と申す。

然し、『菩提』が此処に現れると手は手の働き、足は足の働き、目は…眉毛は…と各々の『菩提』は其処に何の囚われ無く大和(たいわ)一元の調和が現れるもの、《菩薩の儘の現れが宇宙の生命の姿》《随神の調和の姿》《大和の姿》なのじゃ。

此の囚われ無く何の拘(こだわ)り無く宇宙一元の世界に活躍為し給うを之(これ)"神"と言い、自我の世界で歩む者を"人"と言うに過ぎざるもの。

斯かる菩薩の現れる姿を称して此れ『涅槃』『寂静』と申す。

大和一元の世界は、手は手を生き、足は足を生き、手は手を握るものに非ずして他のものを握るが手の任務、足の足を歩むものに非ずして身体を運ぶが足の任務。

涅槃の世界、寂静の世界こそ実は《八方への奉仕の世界》、《十方此れ己れを捧げるの世界》と成り申す。

さて、己れを涅槃の世界に置いて捧げて観れば、手は他のものの為に物を掴んで運び、足は足以外を支える為に此れに有りしものと…。

涅槃、寂静は十方に奉仕の世界に成ると…あらっ不思議や…手の中に全体が隠れ、足の中に全体が隠れる如く、十方に奉仕する世界は"十方が其の儘己れと化す"もの、己れを捧げる姿が全て己れに返り来たる世界。

此の境地を称して『脱落涅槃』とは申すもの、即ち人は愛惜の念より穢れを生じ、発心を始め元の素直な在りの儘の世界に帰らんとするの修証を生じ、無心の境涯、随神の大道を菩提として現し、菩提は宛(さなが)らの世界を生じ捧げ行く己れの世界の中に全てが"我(われ)"であり、大和大我(たいわたいが)の世界に脱落涅槃として歩む事こそ『宗教』と申すもの」…と説いて下された。