此の世界に存在する"眼に見える形有るもの"は全て幽体を備えているのです。

失くした記念品とか、火事や災害で焼失した大切な思い出の品も、皆"この世"の役割を終えるや否や、霊界の《相応しい界層》に出現すると伺っております。

例えば、煙草なんかは燃える先から霊界に徐々に出現するという具合です。

絵画、漫画等も地獄から高い霊界に至る迄、作品の芸術性に応じて夫々の世界の図書室や伽藍に集積されて行くと言う訳です。音楽も有ります。


『地上境』と言うのは、正に我々の地上に隣接している"幽界の地上"なのです。

唯、普段は眼に映らないだけで、例えば通勤列車にも幽体は有りますから、幽体が有ると言う事は、幽界側では同様に通勤列車が走っていると言う事なのです。廃車に成ったりして壊された車輌は幽界側を走っている理屈に成ります。

実は我々の生活パターンと全然変わらない世界、即ち食べる物も有れば、デートする場所も勿論有るし、色んな人と出会う場所も有って、此れは通常の人間と全く変わらない幽界人間達が、沢山我々の周囲を彷徨(うろつ)いて居ると言う訳です。

地上と同じ明かりを見ています…が、此の地上境と言う霊界…正式には幽界ですが、幽界も現界も霊界に包含されている訳ですから、大きくは霊界と言う訳です…の光と我々の電気の光は全然違います。

霊界の光と言うのは、"霊眼に映る光"であり、皆さんが肉眼で見ている様な物質的な色をしていないのです。

霊界は…ちょっと表現し難いのですけど…"霊界の太陽"と言う様な表現も好く有りますが、やはり異次元の世界な訳です。

然し、光は間違い無く有ります。

昼も夜も存在するし、眠い人は寝ていますし、其れから生前同様に仕事もしていますし、通勤電車に乗って揺られています。皆さんが時々見えて仕舞うのは、そう言う幽霊が多いのです。恨みとか何とかでは無い訳です。

唯、通行している通行人と擦れ違ったと言うだけです。

電車に乗って居ても何等不思議な事では無いのです。仕事や遊びに行く為に"あなた"が電車を利用するの゙と同じ事です。

家やアパートに帰って来ても不思議は無いのですが、偶々自分の延べて在った床を、死んだと言う事で、其の布団を焼き捨てたとします、帰って来て「布団が無い」と言う訳で、不思議に思う霊も沢山居るのです。布団の霊体が其処に有るとは限りませんから…と言う事は、其の霊に執っては本来の日常なのだけれど、何処か分からないけど微妙に異なる日常に段々不安に成ると言う事です。

布団が無いばかりで無く、見知らぬ誰かが自分の部屋を占拠している上に、何時の間にか模様替え迄して我が物顔で居座って居るのですから…。

「おい、俺の部屋から出て行け」と、出て行かそうとしてサインを送る事も有る訳です。

此れも地上境に住んで居る霊が地上界に住む人間に対してする訳ですが、霊には現界は恰も《擦り硝子》越しに視る様にですが、見えて居る為に起こる出来事と言う訳です。


地上境へ来ますと、明るいですから、結構我々生者と同じ様に楽しみも有るのですが、徐々に違和感が芽生え…飲みに行ってもちっとも酔わないとか、肉体が有る様に見えても霊ですから肉体が無い訳で、生きた肉体を通した感覚は味わえませんから、軈て悪戯をする訳では無いけれど飲みたいので、兎に角憑依したり…此処でも憑依現象が有る様です。

皆んなが気付かない素振りをする事に腹を立てたりして喧嘩を吹っ掛けたりしている霊も多いみたいです。


さて軈て、其の『地上境』の上に所謂『夢幻境』と言う世界が在る訳ですが、どうやら人間も此の辺に迄来ますと、地上で悪態を一杯重ねて来て、辟易してかなり世情の事に飽きっぽく成っています。

そうすると、何か清らかな世界へ行きたいと思うのですね。

例えば、私達が大自然を観て、或いは自然に親しみますと、「自然って良いなあ。自然は素晴らしいなぁ」と、感動しますが、此れは美に憧れて来た証拠です。

もうヘドロに塗れる様な人間世界の争いや、血肉の醜さと言ったものから何とか逃れたいと思って、其の世界へ来た時に心の安らぎと言うよりも、何か向上した様な錯覚を起こす訳で…芸術家が美に向って直進しているとか、彫刻家が良い物を創り出そうとか、お茶、御華、書の世界…其れ等は『道』に通じて行けば良いのですが、趣味で演っている人が有ります…そう言う人達は、かなり自己満足して居ますから、其の自己満足の世界と言うものが、地上のちょっと上に在る訳です。


そうすると、"観念形態で美しい物を描くと、パアッと美しい物が映って来る"のですね。

眼を閉じて「神様よ、神様よ」なんて願えば、パアッと神様が映って来る訳です。

但し、誤解無い様にしてください…"神様"と言っても、個人の想念上の神様であって、実在召さる神とは何の繫がりも無いのです。

「綺麗な花よ、綺麗な花よ」と眼を閉じれば、綺麗な花がパアッと映って来るのです。

お花畑に住みたいと思って、"思い"を馳せたら、お花畑がパアッと開いて来る訳です。

こう言う事は、《観念形態の中では自由自在》に成ります。


此の様に、自分の思い通りの世界が直ぐにパッパッと映って来る訳ですから、此処に居る霊人はより美しいもの。

より美しいものへと此処の霊人達の心が結果的により美しいものへと向って行きますと、夢や幻の如きファンタジックな世界へと入って行く訳です。

其の"思い"が現界に生きる人にハレーションを起こせば、ファンタジックな…有りもしない想像の世界に囚われる事も無きにしも非ずと言う事に成りますね。

此の様な境涯の世界を『夢幻境』と呼んでいる訳です。


其の『夢幻境』を超えますと、其処には『執着境』と分類される世界が待っています…。

此の"執着"と言う言葉が分かり難いかも知れませんが、『執着境』と言うのは美しい世界と違って、"もの"に拘ると言う訳ですから、例えば、生前は骨董品を集めて来たとか、自分が良い車に乗っていた事を忘れられ無いとか、生前に極楽暮らしを実現して来た様な…素晴らしい敷地と贅沢な持家が在った等と言うものは、其れ等に観念形態を残した侭、執着してますから…其れは美しい過去への執着と成る訳です。

其の執着の侭の世界を又幽界で再現しようとしていますから、従って、自分の家が既に現界に在り乍ら、幽界にも同じ"我が家"が在る訳です。

其の同じものに何時迄も拘り、住もうとしたり、其の家を更に豪華にしようと言う事にばかり拘って行く…つまり、既に持って居た何かにばかり拘って居る、本当は既に死んで居るのに、生きていた時のものにばかり拘って居る境涯の霊が屯する世界が『執着境』と言っている訳です。

此れは、『暗黒境』と拘る内容が違う訳ですが、より美しいもの、ゴージャスなもの、そして自分が生きていた時に体験して来たものをそっくり其の侭残して其れに執着した侭で幽界に存続している訳です。

ですから『執着境』はそんな霊が集って出来た界層と言う訳です。


然し、此の幻の如き過去の異物への執着にも、何時かは飽(あ)む時が来るのです…「一寸待てよ…可怪しいなぁ…自分が居る場所は本物なのか?」と、つまり、「全部観念形態では無いのか」と気が付き始める事に成ります。

そうすると、此の執着からも一歩逃れて、フッと気が付き始めます。

此れが大事な所です。

此の辺に来ると、自分の心が澄んで来ますから、暗黒も薄明も無く成る訳です…心には暗黒も薄明も無く成る事は無いけれど、"薄らいで居る"訳です。

そう言う境涯に成ると、周りの雰囲気も変わって居る事に気が付くのです…其処を『超執着境』と言う訳です。


そうすると、所謂己れの執着から逃れて…と言う事は、夢幻も執着からも皆抜け切って居る訳ですから、非常に清々しい気分に成っている訳です。

此の"清々しい気分"と言うのは、一種の《諦め》に近いものです。

もう、"求めた家なんてのは存続して無いぞ"と言う事で、無い事が分かり、其れは自分の霊界構造上の家だったと言う事に気が付き、そして寧ろ清々しい気分に浸ると言う訳です。


実は、此の時に初めて主護霊の声が聞こえたり、或いは主護霊が姿を現したりし始めるのです。

つまり、『自分の心が澄み渡る事が主護霊と末魂の対面と言う事を可能にする』と言う事です。


夢幻境辺りでは、同じ霊人と成った親子が合流して逢っています。

何度も述べる様に、霊の世界は観念の世界ですから、"会いたい"と思ったら…我が子を想像すれば、我が子がボーッと出て来る訳です。

況して、互いに死んで居たら、必ずハレーションが同時に起こりますから、逢えるのです。

然し、逢えるんですが、直ぐ離れて仕舞うと言う世界でも有ります。

夢幻境辺りの霊人は未だ観念形態が安定していないと言う事です。観念も心と同様にコロコロ変わるから安定しないのです。


さて、此処で主護霊と会ったからと言って、高い霊界に主護霊に伴われ行けるとは言ってませんよ。

主護霊と言うのは、末魂は自分の生んだ分霊ですから、若し主護霊が殺人を期待して生んだとしたら…末魂が殺人を犯して居たとしたら、主護霊の願いは適ったとして、末魂は主護霊と逢えるのですが、主護霊に当たる霊も地獄から来て居る事に成る訳です。要するに"自分を生んだ前世の己れ"と会う事の出来る世界である…可能な世界であると言う事です。

つまり、本当の霊的親と巡り逢う事が出来ると言う事です。

親の善し悪しは別にして、逢う事が可能だと言う訳です。

兎に角、自分の心が澄んで来たら、そう言う事が生じて来ますよ…と、こう言う世界が幽界の『超執着境』と言われる處なのです。


そして、一番最後に辿り着く世界が『大成境』なのです。